1994.1.26発行
※リンクしていないものは、手書き、漫画などの為ホームページ上には
掲載しておりません。
ご覧になりたい方は放射性れんこんVol.14をご覧ください。
昨年は芦浜が大きく揺れた。レジNさんが報告している1月の感動のデモ。2月の原発投票条令成立。4月には古和浦漁協の役員改選で初めて原発推進派が役員の多数を握ったこと。そして、この12月のお金のばらまき。
この12月の動きについて少し報告してみたいと思う。
芦浜原発のことをあまり知らない人のために
芦浜というのは三重県の南部で、紀勢町と南島町にまたがっている浜です。ここに原発を作ろうという計画が浮上したのが63年なので、もう30年以上の月日がたっています。2つの漁業協同組合がここに漁業権を持っていて紀勢町側の錦漁協と南島町側の古和浦漁協です。錦漁協は早い時期から原発賛成だったのですが、古和浦の方は今でも反対決議を撤回しておらず、漁協の建物には原発反対の旗がたなびいています。しかし、前にも書いたように昨年4月の役員選挙で組合長と理事の多数をはじめて原発推進の立場の人が握ったのでした。そして、昨年1月から2月にかけての南島町における原発反対の大きなうねりは古和浦のそういう状況をにらんだものでもあったのです。
この12月の動きについては河内丸氏がBBSれんこんの電子掲示板雑記帳に書いてくれているのでそれを引用しよう。古和浦の漁民の漁協向けの抗議書と中部電力に対する南島町原発対策協議会の抗議書もあわせて引用する。
Note 372 ★★ 雑記帳 ★★ (ZAKKI)
[ BASENOTE with 10Res ]
Title: 芦浜、緊急事態発生。行動開始せねば!!
[from 浦和] Date : 10:14pm 1/16/94 カワチマル (河内丸)
まさにひとでなし。実弾(現ナマ)ばらまいて、ひとの心をズタズタに引き裂く
許せん!!
Note 372 ★★ 雑記帳 ★★ (ZAKKI)
[ RESPONSE: 1 of 10 ]
Subject: これは、もはや暴力だ!
[from 浦和] Date : 10:34pm 1/16/94 カワチマル (河内丸)
zippさんの書き込みを漫然と見過ごしていて、まぁ、ちょっと大変なんだろうなーと思っていた矢先、PC-VANにzippさんからの転載『抗議書』2通を見た。ちょっと、いくらなんでもヒドいのではないか。あまりにも露骨な卑怯なヤリ方で、思わず怒りに全身が震えたぞ、ぼくは!
中部電力(中電)が、古和浦漁協に2億円預託。それを漁協は、組合員ひとりひとりに「越年資金」と称して100万円ずつバラまく!こんな露骨なやり方を許してしまってよいのか!もう、開いた口がふさがらない、とはこのことだ。
経過をかいつまんで言うとこうなる。
1993年12月8日
(開戦記念日! 宣戦布告だ!)
古和浦漁協役員会は、「海洋調査を勉強する委員会」設置を決定中電に伝えるとともに「勉強会を含め漁業基盤整備のための資金協力」を要請!
12月15日
はやくも中電は2億円の資金提供をする「覚書」を古和浦漁協と結ぶ。(ほとんど話はついていたわけだ!)
12月16日
2億円、古和浦漁協に振り込まれる。(いくらなんでも早すぎる)
12月17日
この2億円に対する抗議書が反対派組合員によって組合長に手渡しされる。
12月20日
役員会は、この資金をもとにひとり100万円の「越年資金」を組合員に支給することに決め、組合員に通知。
12月24日
古和浦漁協、「原発反対対策協議会」を脱退。
12月27日
「原発反対対策協議会」中電に抗議書を手渡す。
中電、2億円について「一年以内に目標(海洋調査)を達成できない時には返してもらう」と語る。
なんだ! これは!!!
この卑劣なやり口には、反吐がでそうになってしまう。こんな暴力は、いくらなんでも見過ごしてよいわけはない。
これは、全国から中電と、古和浦漁協組合長に抗議の声を届けなければなるまい。こんなことを見逃したら大変なことになる。
古和浦の反対派漁民を孤立させるな!!
河内丸
Note 81 ★★ 持ってこい原子力関係 ★★
[ RESPONSE: 5 of 6 ]
Title: 芦浜・南島町関係の転載ノート
Subject: 抗議書1>中電が古和浦漁協にワイロ
[from 浦和] Date : 10:42pm 1/16/94 カワチマル (河内丸)
'93年12月15日、中部電力が古和浦漁協(正組合員数215人)に、2億円の環境調査事前金を預託した(アリテーに云えば、堂々とワイロを贈っわけだ)。
それに対する古和浦漁協組合員による古和浦漁協への抗議書。17日、約20名の組合員が組合員95名の署名を携え、組合長に申し入れを行なった。
@@@@@
抗議書
古和浦漁業協同組合(以下単に古和浦漁協という)は、昭和三十九年二月の総会において芦浜原子力発電所建設反対の決議をし、現在に至っている。十二月十五、十六日の新聞報道によると、古和浦漁協役員が、中部電力株式会社(以下中電という)に対して二億円という多額の資金提供を要請し、中電はその要請をうけて二億円を古和浦漁協に預託するとのことである。
この預託金の目的は、「漁業振興や経営の安定、海洋調査の推進に役立てる」とのことであるが、「海洋調査の同意時点で支払う実額補償の一部にあてる」ものである。この預託金は、明かに補償金の前払いであるという重大な内容を含んでいるにもかかわらず、古和浦漁協の総会にもかけずに、役員が独断先行しておこなった暴挙であり認めることは出来ない。
我々漁業者にとっては、芦浜原子力発電所の建設を認めることは、生活の場であると同時に、共有の財産である海を売ることである。我々漁業者は、豊かな海を孫、子の代まで引き継がなければならない義務がある。我々は、我々の時代にその義務を放棄してしまうなどということは許されない。
我々は、自らの生活の基盤を堀り崩す、芦浜原子力発電所の建設に一歩踏み出すような「海洋調査」に反対し、この度の根拠のない二億円の預託金受け入れに抗議する。
一九九三年(平成五年)十二月十七日
古和浦漁業協同組合御中
@@@@転載@zipp
転載
河内丸
Note 81 ★★ 持ってこい原子力関係 ★★ (ported.nukes)
[ RESPONSE: 6 of 6 ]
Title: 芦浜・南島町関係の転載ノート
Subject: 抗議書2>中電が古和浦漁協にワイロ
[from 浦和] Date : 10:43pm 1/16/94 カワチマル (河内丸)
12月27日、南島町『原発反対対策協議会(原対協)』(南島町にある七浦全ての漁協組合長と七人の町会議員で構成。しかし、24日の原対協の会合で古和浦組合長は会からの脱退を宣言した。)が、南島町の抗議行動としては初めて名古屋にある中部電力本社に乗り込み申し入れを行なった。
@@@@@@
抗議書
我が南島町に芦浜原子力発電所建設計画を押し付けられてより三十年の歳月が流れた。我々町民は多大の犠牲を払いつつも、芦浜原子力発電絶対反対の意志と心情を訴え続けたが、中部電力は全く改心の色なく今日に至っている。
また、中部電力社員が芦浜原発推進の名の下に莫大な金をばらまき、家庭の破壊、地域の破壊をおこなっている。また、それに起因して人間社会にあってはならない人権侵害も行なわれている。
そのため南島町議会及び南島町原発反対対策協議会の芦浜原子力発電所建設反対決議に重ねて、本年一月には南島町三千五百人のデモ集会、二月には町民投票条例の制定をもって変わらぬ反対意志を天下に示したところである。
しかるに今、中部電力は古和浦漁協に海洋調査を前提とした二億円の資金供与を行なうとの報道に接し、驚きと怒りを禁じ得ない。
南島町民の存在を無視し、権利を踏みにじる行為であり、我々への重大な挑戦であると断ぜざるをえない。
我々南島町民は、新たな決意で芦浜原子力発電所建設阻止で戦うものであり、今後調査強硬に起因する事態の一切の責任が中部電力にあることを宣し、中部電力の環境調査に向けての策動に満腔の怒りをもって抗議する。
平成五年十二月二十七日
中部電力株式会社
社長 阿部浩平
三重県度会郡南島町
南島町原発反対対策協議会
会長 濱地民生
@@@@@@転載@zipp
転載
河内丸
◎なにが問題なのか?
第一に古和浦の漁協は調査の受け入れを決定していない。(今度の総会で決定しようという動きはあるようだが。)その決定には総会決議が必要であることは推進派の組合長自身も認めているという。(「名もなき小さな会」機関誌『きぬのもり』20号、柴原洋一さんの「芦浜レポート No20」から)受け入れるかどうかを総会で決める前に中部電力はそれを決めるべき人びとにお金をばらまいたわけだ。それも公然と。今まで裏でやってたことを表でやっただけ、なんていう見方もあるかもしれないけど、そんな不正が公然とやられることを見過ごしてはいけないだろう。そういう中部電力のやりかたにまず、大きなNOを叩きつけてやらなくちゃいけない。
◎なぜ、原発推進に向かってしまうのか?
いつも言われることだけれども、やはり東京では見えにくい視点についても考えていかなくちゃいけないと思う。
この不況のなかで目の前に労せず入る100万円がぶらさげられた。漁業の方はあまり展望が見出せない。原発が出来ることになればさらに桁違いの巨額の保障が入ってくる。おいらは、その金に手を伸ばしたくなる気持ちが想像できない訳じゃない。漁業に未来を感じることが出来なくなったとき、どうしても、そういう風に流れてしまうんだろうと思う。徹底的に第1次産業を軽視し、地方を軽視してきた結果なんだと思う。だけど、古和浦をもう終わってしまった場所とは思わない。半分以上の組合員はこのお金を受け取っていない。目の前にそんなふうにお金をぶらさげられても、最後まで海とよりそって生きていこうとしている大勢の人々がいる。
今、ぼくがこの東京で原発に反対することと古和浦で原発に反対すること、同じ原発反対として声をそろえて闘っていきたいけれども、かかえる重さは比較にならないだろう。だから、今回、お金を受け取った人のことを僕は声高に非難することは出来ないし、したくない。もちろん、そういう人に「もう1回、原発に反対して海とよりそって生きていこう」と呼びかけたいけど、その声を届けてわかってもらうことはとても難しいだろう。漁業や地域を再生していく展望と現実性を抜きにして、それは出来ない相談だ。だからこそ、そういう困難な状況の中で、漁業や地域を再生していこうという若者が大勢いるらしい南島町に希望を持ちたいと思うし、その輝きを大切にしたいと思う。
追記1
本当は南島町で予定されてる3月のイベントのよびかけを書く予定だったんだよね。12月のれんこんのワーキング(運営)会議ではそんな話しだったはず。ところが、状況は急転して急な事態にそのイベントも見えてこないみたい。まあ、こっちもそのことを調べる余裕もなくなってしまってるけど。というわけで、テーマが変ってしまいました。ごめんなさい。で、こんなふうに人間関係をずたずたにして平気でいる中部電力に抗議する計画があるらしい。また、
Note 372 ★★ 雑記帳 ★★ (ZAKKI)
[ RESPONSE: 8 of 10 ]
Title: 芦浜、緊急事態発生。行動開始せねば!!
Subject: 調整の件
[from 浦和] Date : 12:56am 1/19/94 カワチマル (河内丸)
うみゅ。ぼくの場合は、職場の中でいちばんの下っ端だから、なかなか我が侭が通らない恨みがあって……。その日およびその前後の日程による。
場合が場合だから、何とか都合をつけたいとは思っています。
ただ、ぼくの課題としては、遠方にいるひとが、どれだけ現地に思いを伝えられるか、ということの方が重要なんですね。当日行けないひとが、ちょっとずつ何かのアクションをし、そのことによって、何らかの思いが現地に伝えられる手だてを抜きにしたら、結局行けるひとだけが参加できる運動になってしまう。そりゃ、ちとマズイ、と思う訳なの。
河内丸
こんな意見もあるから、みんなでやれることを考えてみたいね。
追記2
一家の代表(たぶんおやじが?)だけが正式組合員という漁協っていう組織は今のままでいいのかなってこの文章を書きながらずっと感じています。くわしいことは何も知らないので誰か教えてください。
追記3
感謝1、ZIPPさんへ
この原稿を書くにあたって一番世話になったのはZIPPさんです。正月明けの土日、丸2日間をつぶして僕につきあって伊勢志摩及び南島町を案内してくれました。はまなつめのこと書く余裕がなくてごめん。はまなつめについて知りたい人はBBSれんこんの
★★ Daily DAISAN From PC-VAN ★★ (DAISAN)
という電子掲示板の国内線のいちばん新しいノートの262番で読めます。
感謝2、ZIPPさん以外の名もなき小さな会の人々へ
BBSれんこん以外の資料はほとんど、[名もなき小さな会]でもらったものです。で、土曜日の夜はただで事務所に泊めてもらいました。朝はとなりの社長宅のたまごもいただいきましたです。感謝感謝です。あと、柴原さんにもいろいろ勉強させてもらいました。
感謝3、レジNさんへ
締切を1週間も遅れた上に、こんなぐちゃぐちゃの原稿をページメーカーで処理しなければならない、あなたに本当に[ごめんなさい]
感謝4、そして、まだちゃんと話したことのない南島町でがんばってる人々へ
沢山の気持ちをもらいました。先日おじゃましたときは誰とも話しができなかったので、いつか話しを聞いてみたいと思っています。
えー、ぱたけです。今回、この現場告白の第4弾ということで登場となりました。どうぞよろしく。
では早速、私の体験談を話したいと思います。
■ある一通の手紙
そう、あれは92年の10月....就職先を決め、あとは卒業研究を残すのみとなり割とのんびり最後の学生生活を過ごしていたところに、ある一通の封書が届きました。
送り主は内定をもらっていた会社。結構厚めの封書で中には何が入っているのかな?と開けてみると冊子と手紙が出てきました。
「そういえば内定式に出られない人には事後報告をするって言ってたなぁ...」などと思い冊子に目を通すとやはりそのよう。で、同封されてきた手紙にも目を通してみると、そこには本社をテクニカルセンターに移転することと総務部の責任者が退社することが書かれていました。
本社をテクニカルセンターに移す?
総務部の責任者が辞める?
その時から、なんかいやぁ〜〜〜〜〜な予感がはしり始めたのです。
■あ〜、入社当日...
なんだかんだで4月、入社当日となりました。その日は入社式と事務手続き、簡単な研修があったわけですが、それは別にたいしたことではなくて問題はその夜の新人歓迎会にあったのです。
夜、社員総出で会社の近くの居酒屋に行きました。
最初のうちは、よくあるように,
「さぁ飲め、もっと飲め」
とワイワイやっていたのですが、2次会で行った飲み屋あたりからなんだか様子がおかしくなってきました。どうも、社長と他の人達との会話がギスギスし始めて...........
こちらは事情が全然つかめていなかったので、ただじっと様子をうかがっているしかありませんでした。
そうこうしていると社長と一番気まずそうにしていた人が不意に目に涙をためながらこんなことを言ったのです。
「冬のボーナスがでなかったとか、夏のボーナスもでないかもしれないってことを問題にしてるんじゃないんです!俺は社長の誠意を見せて欲しいんです。」
すると社長が....
「出せねぇもんは出せねぇんだからしょうがねぇだろう!こう言っちゃなんだが、俺は2億の借金抱えてやってるんだぞ!どっからでてくんだよ、そんな金。」
そう、会社の経営状態はあまり良くないところにきていたのです。あの封書に入っていた手紙を読んで以来、感じていた不安が的中してしまったのでした..
不況の波はここにも確実にきていたのです。
しかし、入社初日からこんなことを聞かされるなんて.......
この後の飲み会の状況は推して知るべしといったところでしょうか..........
私の社会人1年目はこうして最悪のスタートを切ったのでした。
■とりあえず、お仕事、お仕事
最初の一ヵ月間は研修に割り当てられました。まぁ、UNIXとかC言語とかの技術研修くらいしかぜず、他の”社会人のマナー”なるようなものは本を一冊渡されて
「これ読んどいて。」と言われだけでした。
小さな会社だし、いちいちそういうところまで面倒をみていられないのかもしれないけど話によく聞く”研修”なるものとは、かけ離れたものであったし、それどころかお気楽すぎて拍子抜けしてしまいました。
5月に入ると、私は自社開発プロジェクトのチームに配属になりました。ここは開発部の主任(のような立場の人だった..)とコロラド大学でコンピュータサイエンスを学んでいたというアメリカ人の二人だけで、開発自体はもうかなり進んでいるようでした。
元々この会社に入った動機っていうのが、この人たちが結構コンピュータに関して凄そうだったので少しでもその人たちの技術を吸収できればいいなと思ったからなんです。(待遇の面でも最初に話しを聞いたときは良かったんですけどね(笑))だから、ついていけるかどうかって不安はあったけどこの人たちと一緒の配属になったことを嬉しく思いました。
さて仕事の方ですが、割と自由にさせてもらいました。フレックスだったし、他の人たちもマイペースで煙草を吸いながら、お菓子を食べながらとのんびりした雰囲気で仕事をしていたので窮屈な思いはしませんでしたね。開発チーム内でも他の二人から色々と親切に教えてもらったり、意見交換の場でも新人の私の話をちゃんと聞いてもらえたりしましたから、こと仕事に関しては楽しかったですね。
でも、それもほんの数カ月間だけのことでした..
■いつのまにか出向...
7月の中旬になると、突然出向に出てくれないかという話が持ち上がりました。なにやら6月に辞めた人が担当していた仕事を別の人が引き継いだのですが人が足りないとのことで、それのサポートをしてくれというのです。まぁ新人の私にはそこで「いやだ」と言えるべくもなく、気がついたら出向先の会社に毎日通うことになっていました。
え?自社開発プロジェクトの方はどうしたかって?それは、こんな状況だから自社開発に専念できるわけでもないですし......一人で2、3件の仕事を同時に受け持つなんてあたりまえですから。
出向先の会社での仕事は主にプログラムのテストと修正でした。ものがCAD/CAMとデータベースの間を取り持つプログラムだったので、テスト用のデータ作成には苦労させられました。なんせゴチャゴチャわけのわからない、しかもつくり難いデータを何件も何件もテストの度につくり、さらにプログラムも自分が書いたわけではないので、どこで何をしているのかなんて「さっぱり、わかりません!」といった状態でしたから.........
そういったわけで毎日が残業の嵐でした。家には寝るためだけに帰るって感じで、時には休日出勤もありましたね。ハァ...
別に忙しいってこと自体は構わないんです、私は。でもね、いくら残業しても休日出勤しても、会社からなにも手当がでないんですよね。そう、ほとんどサービス労働ってことですね。存続が危ぶまれている会社にそういうことを期待すること自体が無理なのかもしれないけど.....
なんか仕事も自分のやりたいこととかけ離れてきたし、会社の状態などを考えると本当に自分はこのままでいいんだろうかと思うようになりました。でも、ここで会社を辞めたところでその後の保証なんてなにもないし、とりあえず今は少なくとも月給だけは払ってもらえるわけだから.......
しだいに私はジレンマを感じるようになっていきました。
■そろそろ潮時かな....
10月になってやっと会社に戻ることができました。それまでの多忙な日々から解放されてなんとなくホッとしたのですが、戻ってみると出向に行くまでやっていた自社開発プロジェクトは資金の関係などで暗礁に乗り上げ、しばらく中断することになったとのこと。すでに社員も数人が退職しており、残っている人も時間の問題ということでした。
そのころの会社の状態は資金繰りがつかず銀行取り引きが停止になり、ろくに給料が払えるかどうかわからないところまできていて、一日中リース会社などから料金の取り立ての電話が鳴り、債権者は会社のことで乗り込んできて、そのせいで社長や経理の責任者は会社にあまり来なくなるといったありさまで、まともに仕事をしているどころではなくなっていました。聞くところによると債権者との間で裁判になるかもしれないとのこと。
ここまでひどい状態になっている以上この会社に残っているよりも、先行き不透明だけど別の会社を探して移った方がいいと思い、辞めることを決意しました。
生活も掛かってますしね.....
辞表を出すときは何か言われるかもしれないと緊張しましたが、社長は「あ、そう。」という感じですんなりと受け取りました。あまりにもあっさりした態度だったので拍子抜けしましたが、なんだかつっかえていたものがとれたような、そんな思いを抱きました。
10月31日付で、私は退社しました。
■後日談
あとから聞いた話なのですが、実は私...というより新人全員、本当は内定取消になるところだったそうです。ただ当時、内定取消が社会問題になっていたのと会社側が景気動向を甘くみていたということで、そんなことにはならなかったということですが。
それと、前の会社にいたときの社内mailなどを先日ふと読みかえしてみました.....
あまりいいことがなかった会社ですが、一緒に働いていた人たちのことや、その当時の色々な出来事を思い出して、すこし感傷にひたってしまいました....
みんな愉快な人たちばかりだったしね...
12月4日未明、八王子市にあるパソコン通信のNET:「れんこん NET」で一部のレスポンスが異常に増殖するという怪現象が発生した。この現象は25日午後3時過ぎまで続いたが、HOST側の物理的な手段によって事無きを得た。
捜査本部の調べたところ、次々と事実が明るみに出る。ことの発端は、一つのベースノートであったようだ。
問題のベースノート(※1)は11月25日、金 健(仮名)によって開かれている。タイトルは「さらばJunk.test云々」(※2)というものであり、なんら感銘を誘うタイトルでは無い事を、敢えて付け加えておく。
12月4日までは、極めてノーマルなレス(※3)の量であった。ところが突如、レス数は膨れ上がり、そのノートで1500レスが記録されると(※4)さらに次のノートで同様の現象が起こる(16日)。
この怪現象の原因は、何人かのアクティブメンバー(※5)とその支持者であった。彼らは25日までに2番目のノートにも2000のレスを付け、意気揚々としていたという。余談ながらこの現象は他のNETでも起き、極一部ネットリンクが 盛んとなった。
この現象(※6)による被害額は相当な額に登り、一部の遠距離メンバーを嘆かせた結果となる。またその未読の量に閉口する者も多数出たため、現在は自粛ムードが広がっている。
なお、主犯であると思われている、真 智法(仮名)は、現在逃亡中である。
また共犯者 某 能(仮名)も行方がわからなくなっている。
(※1)交換日記のタイトルのようなもの
(※2)ここのNETでは12月25日にJunk.testの書き込みを全て抹消するという慣習があった
(※3)交換日記の1ページのようなもの
(※4)ベースノートに100レス以上付くと、ホストのスピードがダウンするといわれている
(※5)彼らは「猿」と呼ばれ、(まことに)救いがたい事にその呼び名を誇りにさえ思っている
(※6)人災ともいう
※資料提供:Nine,More
G・オゥエルの描いた例の「1984」から、もう十年もたってしまった。あの四角な箱は外界を見るものではなく、内側を監視する機械だとさ。管理社会なんて言葉も、いまさら言うのも、もどかしい。
わたしはテレビを持ってない。同居人・河内丸に言わせると、わたし自身がテレビ!?なんだとか。どうやら家ではうるさく話しつづけ、ひとりで舞い上がって、はたまた怒っての展開を重ねているらしい(自覚はないが)。外では見栄もあるのでおとなしくて人見知りし、うまく話せない分、親しい間柄では喜怒哀楽が増幅された騒がしさと、あいなる。ようするに、わたしが内弁慶ってことね。そこで、テレビは不要だ。
好みとしても、テレビの「たれ流される映像」なんて、かんべんだ。おかしくもないのに微笑んだりとか…、詰まるところ何でも同じ色調に映ったり、変に公平ぶる素振りも、ごめんだ。知りたい情報を得るには膨大な時間の無駄。これは「ながら見」ができないわたしの性分ゆえかもしれないが。
なのにビデオ・テープは、なぜかいくつか持っている。見たいものは、ひとさまに頼んで録画してもらい、おもむろにお酒でも抱えて見せてもらいに出かけるのだ。それで充分、用は足りる。テレビって中身が薄いから、あれこれと批判的に見るのでないと、物足りない。まるで死んだ魚そのまま。
やっぱり生きたナマものが、わたしにとっては魅力だ。芝居にしても、踊りにしても。映画は、しばらくさぼっていた矢先にアジア映画の台頭を知る。わたしはアジア映画の製作者と社会・時代をナマものとして感じたいから、封切り時に見るように心がけている。
テレビの持つ不思議な力を感じたのは、参議院選挙に出馬したとき。5年前だったっけ、ガサ子ちゃんと名乗って、ふだん言っているそのまんまを政見放送で話したら、そのテレビ画面をじっと見てくれたひとが多かった。ナマの本人の話よりも、テレビ画面の方が注視されるという効能があるもんかと、ね。わたし自身も、初めてのテレビ・カメラにテンションをえらくあげてたせいもあるけど。
政見放送というお仕着せの枠(条件きついんだよぉ)のなかで、通常の候補者が覚えてほしいのはその名前のはずなのに、わたしは届け出た名前をカメラに向かって一言も言わなかった。これが放送局のひとにとっては面食らうことだったらしい。一昨年のラジオ放送の収録では、世間知らずっぽい局のお姉さんが心配すらしてくれた。ほかの職員は訳知り顔で、かわいくなかった中での出色。
昨年の1月にサンフランシスコに行った時に、ケーブル・テレビの30分番組に出演した。カリフォルニア大学の校舎を借りた民衆のための局なのだが、機材や設備はおおげさなものではなく、むしろ機械にはあまりこだわらない姿、それよりも雑談しながらの手造り精神を新鮮に感じた。技術立国(おっと!)日本で、ご立派なケーブル局が増え、家庭に性能過剰の電気製品があふれているのと対照的。
先月、郵便小包で「もんじゅ」反対運動をルポしたビデオが届いた。自主製作ものなのだが、説明に乏しい身内ビデオで、途中から早回しして放り投げてしまった。日本のひとって、ものを作り上げるのが苦手なのねぇとため息。せっかく「高性能」の機械もってるのに。それも個人単位でさ。
アジアでは、ひとびとの伝達手段としてテレビをよく使うという。地域によっては同じ国のなかでも言葉がちがい文字もちがうこともある。活字よりも映像つきのほうが、伝わりやすいらしい。映画が大衆の娯楽として機能している国もある。
この2月には、インドで映像に関する国際民衆会議が開かれる。PARCの前田美穂さんも参加するそうだが、アジア各地からたくさんのひとが、ニューデリーで出逢うとのこと。いい刺激になるといいな、横のつながりが広がればいいな。
片側通行ではない方向・視野を模索するメディアとしてのテレビ、ということにしか関心が向かない、近頃のわたしなのだった。で、声優デビューです。板前・美穂さんの「鯛の刺身」じゃなかった、「切り売りされるタイ」見てね。
PARC(アジア太平洋資料センター)では、昨年から海外のNGOや小さなプロダクションが作ったビデオ作品の日本語版を制作・販売しています(下記参照)。
これまでPARCは中学生・高校生を対象に南北問題をエビやバナナなどのモノをとおして説き明かすスライドを制作してきました。世界の人びとの息吹を伝える映像をもっと多くの人に、ということで昨年から始めたのが海外ビデオの翻訳です。構造調整、環境問題、先住民、観光開発など、世界で起きていること、とても大きな問題なのに見えにくくなっていることを映像で伝えられたらと考えながら制作にあたっています。
最新作はタイの観光開発の問題を描いた「切り売りされるタイ(原題 Tailand for sale)」。日本人にも人気の高いリゾート観光地プーケットで、観光のためにどのような弊害が起きているのかを告発するもので、タイの映像作家イン・ケーの作品です。作品の中で、タイの少数民族チャオレーの村にやってくる観光客の群れが映し出されます。この場面の観光客は台湾人なのですが、チャオレーの子どもたちに金を投げる彼らの姿は、そのまま悪名高い日本人観光客の姿とだぶって見えてきます。観光客の傍若無人さもさることながら、島の地形を変えてしまうほどの開発、農業用水を奪うゴルフ場など、「観光」を切り口に、日本や欧米とアジアの関係が見えてくるこのビデオ、環境問題を考えるためにもぜひどうぞ。
PARCとは?
1973年に設立されたPARCは、出版、資料、調査研究、オーディオビジュアル、自由学校など多岐にわたる活動を通じて、アジア・第三世界と日本の民衆がともに生きる世界を作っていくことをめざしています。
これまでにこんなビデオを制作しました。
債務危機のカリブ − 財布に鎖をつけられて構造調整や世銀・IMFのしくみを解く
緑の砂漠 − 植林が環境を破壊する ブラジルの社会・環境を破壊するユーカリ植林
風の記憶 − グアテマラ先住民族抵抗の500年 グアテマラの先住民のたたかい
切り売りされるタイ − プーケットの観光開発 上記参照
各約30分、6,000円、ただし「風の記憶」のみ55分、8,000円。
お申し込み・お問い合せはPARC前田まで。TEL 03-3291-5901 FAX 03-3292-2437
ここは帝都の極東のとある街、南は鮪が海流された水槽があり、愚民どもの目を和ませている。そしてここはこの街の北側の中心地あたりの家、ここで今新たな天地が創造されようとしていた。
その家の中に壁には、ぬいぐるみがいっぱいつるされた部屋があった。その部屋の一角に、シンセとATに囲まれた机が・・・。創造者はそこに座っていた。
そしてその記念すべき天地創造の日が訪れた。1993年12月4日のことであった。
できた、できた、小岩ができた。と言うことで今回はうっぷんばらしをしなくちゃいけないのかな?。(くわしくは先号参照のこと)と思っても、別にできてうれしいので、その必要もないわけだよな。まぁ本当にできちゃったわけで、私が去年、浦和開局オフで口走った一言が本当に実現されてしまうとは夢にまで思わんわ。まぁ、できるまで色々と苦労はありましたが、本当にめでたい事です。そして色々と協力してくださった方々、本当にどうもありがとうございました。さてさて挨拶はこれくらいにしてそろそろ種明かしに行きますか。
と、その前に簡単に自己紹介をしなくてはいかんですね。えーと普段は「嶽志」と名乗っているのですが、「中次郎」とか、「なかぢ」とか様々な呼ばれ方をしている者です。まぁ普段はとある会社に通っている普通のサラリーマンです。そう私の初めての記事は、「現場告白」シリーズでしたね。まぁあの中に少し会社のことを書いていますね。でも、なんか自転車の絵の方が印象として強かったかもしれない。たしかに休日は自転車で暴走し日夜日本の道路を荒らしている様であります。まぁ、いわゆるツーリンストなんでいつか君の住む街へ走りに行くかもしれません。そん時はよろしくね。そんな感じで、この怒濤の世の中を生きている奴です。
メインデッシュ 「Mの時代」
私なりの思いと、言い出した勢いによって本当に完成してしまった小岩だが、そのできるまでの間に色々なことがありました。カンパの在り方や、ワーキング会議の存在とか、実際浦和ほどすんなりできたわけでないし、いろんなれんこんネットのメンバーの思いがぶつかった中で本当にできてしまったのねって感じです。それでは私のそれなりの思いを種明かししていきますか。
事の始まりは?
「なんで03にないの?」
から始っているだよね。やっぱミカカ(電話代のこと)は高いし、当然自分の住んでいる03地域にあれば、3分10円で掛けられるわで、やっぱ最初の動機、いきぎれ、めまい、って不純なりにもお金の問題だったりするわけですわ。まぁその辺りの話ってのは「野望の王国」のスープの所で、あちゃらか、すちゃらかの文章で書きましたけどね。でのその頃話って結局「If I like it, I do it」って感じの計画だったよね。いわゆる僕が好きなら僕はやるって感じですよ。そのやっぱり僕のれんこんにたいする「I like it」の部分ってのが大きな思いがあったわけかな。で、それが
「なんだろうって」
今僕に問いただしても、なんも出てこない。そんなことなんですよ。
「そんじゃお終いじゃないか、このお話は。」
まったくそうなんですよといってしまっては、いかせんしかたがないわけでね。
でも、本当に何と聞かれたら多分BBSというメディアがもつ可能性みたいなものかな。私は大学時代に何だかしらんがいつの間にか学生会の会長なるものを努めていたのね。まぁこれはだれかさんにはめられたんだけどね。でもその時の「やっぱやるからには覚悟」ってのがあったりして、その思いが今に引きずっているって感じなんですよね。その時は明らかに自分の意見を発進したわけだし、いいなり、悪いなりに、自分に対する評価や意見の喧嘩が本当に楽しかった。だから楽しく喧嘩しようぜってわけじゃないけど、それがれんこんネットいうメディアの中にもあったわけで、今の社会に置いて自分の自己主張をして返ってくる場ってのが本当に少ないと思うジレンマのぶつかりが、今回の思いの発端だと自分でも思っている。そんじゃまぁ自分でも作っちまえってのが事の起こりの「恋い来い小岩計画」なんですね。
でも、これだけだと少し軟派かな。掲げた計画名「恋い来い小岩」にもあるように、やっぱり、少し軟派な感じってのは、あるかもしれないね。まぁ僕は軟派なアプローチで硬派にやっている訳の解らん奴ですけど、BBSにもう少し軟派アプローチができてもいいと思う。と言うより、自分が自己主張するさいに、もしくはいわゆる社会的アプローチをする時に軟派なポジションってのが僕には欲しいのと思っていたりする。なんかいいかげんな奴ですけど、いいかげんなりにまじめに主張しているのです。その軟派アプローチ男がいわゆるちょっと硬派な感じの表現としてやってみようと思ったらできてしっまたのだ。でも、本当にこれ以外に思いってのはないんだな。後は「勝手に使ってやってください」ってわけですかね。そりゃ自分ですることはいっぱいありやすので、それは今まで通りにやらせていただきますけどね。
さてさて、これが私のお気楽御気楽の軟派な自己主張ですな。それでもやっぱりこうしてできてしまうと、れんこんネットのメンバーのパワーには本当思わず「脱帽もんですわ」って感じですね。それに僕の一言の思いが実現されてしまったのは、本当にびっくり。これはやっぱ生きてて楽しいですわい。まぁ自分の性格には「Whatever it is, I just can't stop」ってみたいのがありますから。猪突猛進とでもいいましょうかな。どっかの小説の台詞じゃないですけど「無鉄砲なナカヂ」(内輪ですみません)ってやつですね。まぁこれからもよろしくね。
デザート「M君になれるかな」
いよいよこれが最後の章ですね。まぁ今までのメニューはどうでした?。それなりに私色の味を味わっていただけたかな。まぁ食中りに気をつけてくださいな。私も先週は「急性胃腸炎」なるものにかかってしまい、この年で40度熱と二晩格闘するはめになりました。おかげで未だに胃の調子は整わないのでやんした。そんでも会社はあまくねぇって感じで連日出張の雨霰です。実はこの原稿を書き上がったあと広島にいかなくてはいけないのであります。実は昨日松本から帰って来たばかりなんですけどね。そんでこれからAttic(れんこんネット八王子のホストがある所)に行かなくてはいけないのであったりする。実は今日は月一回のワーキング(れんこんネットの運営会議)いかなくてはいけないので、まだできていない原稿を持って行く所です。さてと屁理屈はさておきさっさと仕上げないとね。
今考えれば、自分で考えた事ができちゃったわけだから、やっぱり「馬鹿でも自分で考えたら」って本当の話なんだね。でも、この馬鹿の主張はこれからの話だし、自分がこれからとる目標なるものが存在するのね。「マスをかく」「M王現らわる」「Mの時代」「M君になれるかな」とサブタイトルがついているけど、それは僕のそれなりの思いと主張のみたいなもんかな。まぁ先々号の中に「独裁者」の絵があるけど、あれも僕がイラストレーターKEENに頼んで書いてもらったわけですからね、それなりにあのイメージってのがあるわけであるかな。それが、なかぢ色の表現なんですかね。初めて記事を書いた時の「自転車野郎」っては姿そのものですけどね。まぁ、そんな僕の自己表現なんだけど、でもやっぱり、ほらなんていうの、何かがかえってくるのっては楽しいわけでね。先々号の感想は「芦浜キャンプ」の時に少し聞かせてもらったわけですが、まぁ「わけ解らん」ってが感想かもしれませんけどね。でもそれで帰って来たわけだから、やっぱり一応なりにメディアになれたわけかな?。これでまた新たに03進出ってのができたわけで、新しいメディアの誕生ということですね。
そんでね「れんこんネット小岩」ができたら、その小岩を利用したやっぱ次なる計画ってが出て来ちゃったわけなんですよね。それが最近ネット上で話題になっている「れんこん小岩端末in教会」計画というやつなんですね。たまたま私の家の隣が教会だったわけでそれをレジスターNさんに目をつけられてしまったのが運の尽き
「教会に端末を置こう」
の一声にいわゆる「パブリックスペースにれんこん端末を置こう」というまた新たなる思いが始ったわけでありました。まぁこれはまだ本当にまだ教会の牧師さんに了解をとっただけって感じです。まぁこの話は「極東の嵐 第3部」になるわけかな。(おいおいまた原稿書かんきゃいかんのね)でもこれじゃデザートで話は終わらないね。まぁ飯はきちんと毎日食べないと生きて行けないわけですので、またオードブルってのありかな。
やっぱり馬鹿でも自分で考えてみんもんですね。
食後 − ティー −
「M君は生きていけるでしょうか」
まぁ一様食後の一服って感じですね。別にシュガレットでもいいんだけど、私はたばこはすわないのでね。おまけですのでお気楽に読んでね。
えーと、できてから1ヵ月半立ちました。ぼちぼち新人さん会員も出て来てやっと軌道に乗り始めた所なんですけどね、色々とトラブルがあんのよね。まずモデム(パソコンと電話回線をつなぐ機械)が安定しないのよね。色々調べてんだけど、別に問題になるくらいの異常がないわけなのよね。これは本当何とかしないといけないものです。
それからこれはデザートでも書いたけど、次なる計画は「れんこん小岩端末in教会」かな。これは私の家から、ケーブルを引っ張って電話代のかからないアクセスポイントをパブリックスペースに作ってしまおうという話なんですけど、これもそれなりに大変なんですわい。なんせまったくパソコン通信の知らない人が触れるような物したいわけだから、マニュアルとかをつくらなくちゃいけないわけよね。本当だれか助けてって。まぁ強力な協力者求むって所ですね。あっこれは洒落じゃないですよ。
でも、こうしてやっと生き始めて来ましたって感じです。これからもがんまりますのでよろしくね。
ニュー転送屋
そんで、小岩ができていわゆる転送屋(ホストとホストの橋渡し)もパワーアップしたんだよね。そのおかげで浦和ができた時と同じ様に、小岩で書いた事も、八王子で書いた事もどこでも読めるし、電子手紙も小岩−浦和、小岩−八王子とちゃんと出せるわけです。それから、もう一つこいつの役目が増えました。PC-VANの第三世界ネットワークの転送です。今までれんこんネットのハタクンがやってくれていた事が、まぁ転送屋の仕事になりました。レジスターNさんありがとうございます。
カンパ体制
えーと、これはれんこんネットの運営費の話なんですけど、今まではまぁ個人の融資によりまかなってきたんだけど、やっぱそれじゃまずいじゃないかいなと言う話で、きとんとカンパという体制をとるようになりました。まぁこれは今回のれんこんネットパワーアップ計画の時のお金のうんぬんかんぬんってのが問題になったことが事の始まりなんですね。あっこれはが誰かが使い込んだとかじゃないくて、やっぱきちんと窓口がないといけないじゃないかって話でね。そんできちんと窓口を設けて運営して行く事になりました。今後ともよろしくお願います。
れんこん小岩オープニングタイトル
八王子、浦和にアクセスしてみれば分かりますが、ネットにログイン(ホストにつなぐ行為のことをいう)した時のメッセージが下記のものです。いわゆるネットの顔みたいな存在です。これはれんこんネットのけーた君が作ってくれたものです。大変文字の流れがきれいなので、びっくりしました。タイトルと言うのは絵とかじゃなくて、全て文字で表現しなくちゃいけない、いわゆる花文字みたいなものです。その中であんだけもをつくるセンスは素晴らしいものです。本当ありがとうございました。
電話番号
おーっと肝心、要なものを書くのをわすれていたぜ。これがわからないとアクセスできないもんね。えーと
「おー三合労の給与 咲くよーに」
です。えっわからない?。つまり語呂合せです。これもネット上で募集したんだけど、私は上記のやつでおぼえているわけです。解説すると
0 356 94 394 2
「おー三合労の給与 咲くよーに」作:レジスターN
ということです。他にも結構ありますよ。
0 3 56 94 39 4 2
Oh,me? 語呂?(苦笑) サンキュ〜 for (^ー^)ニッ 作:雲亜
うーむ、わけわからん。
03−5694−3942
ゴムキュウ シサクシツ
ゴム球 試作室 作:ちほ
これなんか、あやしいですね。
まぁ、みなさんも考えてみてくださいね。
<P>
3月のライブの話
えーと、これはまったく関係ない話なんですけど、私は友達とバンドを組んでいるんですが、そのライブを3月の末にやってしまおうってわけです。そんでまぁその案内なんですけど、日程とか場所ってまだ正式に決まってないわけ。だから、まぁ宣伝しようがないんだけど、都内で3月の末の土日にやる事は確かですので、「れんこんネット」か「れんこん事務局」に連絡すれば解るようにしときますので、暇だったら見に来てくださいね。
そんじゃま、またいつかどこかでね。
『放射性れんこん』に、米(コメ)の問題を書けという。う〜む、困った。いくら農業関連の仕事についているからといってもねー。米の問題を説明する本は、すでに山のように出回っているのにぃ。このぼくが、それに何を付け足せばいいのよん、というのが正直な感想なんだよね〜。
まぁ、ムゲに断わっておしまいにしても面白くない、そこで、れんこんのワーキング・グループで、「いったい、米についてどんなことを書けばいいの?」と聞いてみた。そしたら、それに答えて曰く、
Q1.「米不足になるという話なんだけれど、今年の後半、米を食べるのを控えた方がいいんだろうか?」
−−え〜、食べない方がいい、という論理は一体どこからでてくるのよー!? そういうふうに考えたくなる気持ちは分からなくもないけど。うーん、こりゃ、ちょっと、ひとこと言っておかなきゃなぁ。
Q2.「マスコミの報道についての問題点がたくさんあったと思うけど」
−−うん。それはその通り。だけどさー、マスコミに責任をなすりつけてオシマイというわけにも、いかんでしょうに。
Q3.「米の市場開放によって誰が笑っているの? これって誰が仕掛けたの?」
−−まぁ、そうですねー(困惑)。あまりにも複雑な状況になっていて、敵の正体が見えにくくなっているわなー。実際、表に出てきた政治の動向だけ見ていて、ちょっとわけわかめだもんなー。自民党が作った農業政策の延長線上なんだけど、現実には自民党は、米の自由化に「必死で」抵抗している形になっているし……。「あの」農協が、猛反対したりしていたし……。
Q4.「輸入米は安全なんだろうか?」
−−あ、これねー。これも困った。だってさ、輸入小麦は安全ですか、輸入牛肉はどうでしょう?? 安全だと思って食べています? とね。「安全だ」と言いきってしまうわけにはいかない。かといって、全部が「危険だ」と断言してしまうと、詐欺みたいなもんかもしれない。
米の問題を、消費者の視点だけで捉えると、結局上のような問題点しか見えてこないのね。だけど、そんな問題なのか、そういう問題さえクリアすればいいのか。違うんだよなー。そんなに簡単に割り切れるような問題ではないわけよ。
米とはそもそも日本にとって何であったか
米という作物、これは日本とは切っても切り離せない関係にあるということは、だれもが知識として知っているだろうと思う。この米という作物、そもそもどんなものなのよ。歴史的に、ある程度は解明されているけれど、とりわけ近世から現代までの米の位置はとても大きいように思える。
本来、稲が日本の気候に向いていたのかどうか。これはどうもそうではないらしい。もともと日本の庶民は雑穀(ヒエ、アワなど)を食べていたみたい。でも、ずいぶん前から食べていたのは確からしい。恐らく、少なくとも2000年前から食べていたと言われている。時代は下って江戸時代になり、当時世界最大の消費人口であった江戸の消費者を養うことができた。たいへんな努力を重ねて、米の生産性を増大させたこと。これは歴史で習ったはず。稲を日本の風土に合わせるため、さまざまな努力が積み重ねられてきた。
そのようにして米は日本の主食の座を占めることとなった。これは2000年間の歴史によって培われてきた、ひとつの「文化」であることは間違いない。
それが戦後、本格的に入ってきた石油文明によって、一気に様相が変わってきた。ぼくは、この部分に注目したい。
石油文明によって機械化がすすみ、石油化学製品である「農薬」「化学肥料」が登場。これらは、またたく間に「農協」を通じて日本全国に浸透していった。また、石油精製の過程で廃物(ゴミ)としてできるアスファルトが有料で売られ、全国の農道を覆うこととなった。
これらのことが農家を楽にしたことは、一面否定はできない。ところがそれは同時に、2000年の歴史をもつ農家の風景を、ほんの数十年で一変させてしまい、石油製品である農薬や化学肥料を大量に投入して、石油の動力を使い、土地そのものが持つ地力に頼らず(さらには地力を低下させて)農産物をつくる時代の幕開けとなった。
そして、戦後、農作業が少し楽になったおかげで、農村人口はどんどん減少していくことになる。
一方、石油化学文明による一種の副作用が、70年ごろからじわじわ出てくることになる。最初は、すさまじい公害として、そしてこの公害が一定程度抑えられると、今度はアレルギー体質、アトピーなどの症状の蔓延として。化学肥料や農薬はこうして人間の身体のみならず環境をも破壊し、水を汚染し、海を汚染するという問題も出てきた。ゴルフ場の農薬(除草剤)の大量散布も大きな問題となっている。農薬の空中散布(空散)なんかも、マンガ『夏子の酒』などに出てきたのを覚えている人、いるでしょう。
この副作用の影響で、「食物」としての有機・無農薬農業が見直され、値段は少々高くても、健康を守るためにと、有機農業での野菜や米などの需要が出てくる。「食べる」というのは環境を体内に取り込むことだから。そうはいっても有機農業というのは、全体から見れば、まだわずか。そう簡単に方向転換はできないのね。高齢化した農民が有機農業をしようにも、それだけの手間とリスクをかけるのは大変なのよ。
日本の米のことを、大急ぎの駆け足で図式的に説明すると、こんな感じになるだろうか。
世界的にみて、
米とはどんな穀物なのか
米は、主としてアジアで作られ(表1、表2参照)、主要な生産国は中国、インド、インドネシア、バングラディシュという大人口を抱えた国が続き、次にタイ、ヴェトナム、ミャンマー、日本、韓国と続いている。
ここで表をよく見て欲しい。1990年の世界の総生産量(もみ)が5億2280万トン。それに対し、貿易取引されている精米は、わずかに1140万トン。わずか2%程度にすぎない。
輸出向けが多いのはアメリカ合州国の3割、タイの2割、ヴェトナムの1割程度。
つまり、コメは商品作物と言えるほど取り引きされているわけではないということ。また、アメリカ合州国と日本とを除けば、それほど裕福でない国ばかりという点を押さえておくべきだよね。輸入国の方は、中東の産油国を除けば、貧乏な国ばかり。
さらに、日本の生産量は、この90年の時点で1310万トン(もみ)。世界中で貿易取引されている総量よりも多い。これだけの米を、日本は作ってきた。そしてこれからもその気になれば作れるわけ。注意しなければならないのは、この生産量というのは「減反」を実施して米の生産を抑えた量でもあること。だから、日本にはもっと多くの米を作る能力がある、ということだ。
日本の米は、ほかの国に較べて値段が高いのか
これって愚問かもよ。日本の米は外国のものに較べて6倍とか7倍とか10倍以上の値段だという説もある。いろいろ言われてきたけれど、それは日本が米を買わなかった場合の値段。去年のように大冷害で300万トンも不足する、と報道されたとたん、いきなり米の値段が世界中でどんどん値上がりをはじめた。
そりゃそうだろう。そんなことは、さっき見た世界の米の貿易量を見ただけでも、誰でもわかりそうなもんだよね。それまで輸入していなかった日本が、いきなり3割の米をひとりじめにするとなれば、値上がりするに決まっている。それも、いきなり輸入量トップだよ。そりゃいくらなんでもヒドイと、ふだん輸入している国が思ったとしても無理はないよ。怒って当然だと思いません?
まぁ、それにしても比較すれば、どこまでいっても日本の米はやっぱり高いし、高くなる。ただそれは為替の問題なんだよね。物価がそもそもちがう。もともと円が高すぎるんだよ。アジアの貧しい国に旅行に行ったら物価が安くて、ぼくらの小遣い程度のお金でも大名旅行ができてしまう。こういった物価の違いを無視して、単純に計算していいものだろうか。日本は金満国家、それも世界一の金貸し国(債権国という)なんだよな。金があり余っている。でも、ぼくらはそんなに金持ちではないのに、どーして?
貧しい国に出かけただけで、「円」のちからで金持ちでもないぼくらが、しかも何の苦労も特別な労働もせず、豪遊できてしまったりする。その格差が一番の問題なんだろう。不平等もいいところだ。それじゃ、その「格差」は、一体どこから生まれたのか。それが根本的に大事な問題じゃないか!
アメリカ合州国の米は、
どうなんだろうか
よく、マスコミに引合いに出されるカリフォルニアのお米。おいしいか、まずいか、あるいは安全なのかどうかとか、また日本より安い、とかが話題になるんだけれども、それだけの問題なのかねぇ。
確かにアメリカ合州国でも米を作っている。しかし、この米は、ギャンブルみたいな商品作物、換金作物として作られているといってもいい。平均して180ヘクタールもあるような大平原の大農場で米をつくるんだ。このことをよーく考えてみてほしい。
日本でも米を作られるときも、化学肥料や農薬を使う。ところがアメリカでは、もっともっと使う。それは何故か。日本はよく雨が降る国なのだ。そして、山に降った雨が流れてくる間に、多くの養分(有機物)を溶け込ませた川となる。稲が必要としない余計な有機物は別の植物や微生物が分解するか、あるいはさらに水に溶けて海に流れ込む。日本の米はそういう水の恩恵を受けて育つ。アメリカでは、そうではない。地下から水を汲み上げる。そうするとどうなるか。
地下の塩分やそのほかの成分(有機物ではないものも多い)が地表に溜る。平原だから流れないで蒸発したら、その成分は土地に残るよね。それでもどんどん汲み上げる。するとどうなるか。農薬と肥料と、それから塩分だのが濃縮されていくわけだ。何年も経てば、不毛の土地。つまり土地を収奪してダメにし、土地の環境を破壊してしまうことになる。農業が長続きしないわけ。もともと広い土地だから、何年かは持つのだろうけど。土地はどんどん破壊されていく。
環境を破壊する農業を続けているとどうなるか
ブラジルで行われたリオ・サミットとか、最近の国際会議では、いかにして持続可能な農業を続けるか(政府側は「持続可能な開発」と言ったりしているけれど)が、もちきりの話題になっている。そうでないとどんどん農業ができる土地が減る一方になってしまう。特に、第三世界の国々では、その悩みは深刻。
フィリピンなどの国ではバナナなどの換金作物を同じ土地に毎年つくる。そうするとだんだん土地が痩せてきてダメになってくる。それでも貧乏な国だからというので金になるからやめられない。するとどうなるか。不毛な土地が増え、取り返しのつかない破壊された環境が残ることになる。まるで麻薬に蝕まれる人間とおんなじだ。
これと同じことが米にも言えそうだ。日本の米を除き、連作(毎年同じものをつくること)をすると土地がだんだん痩せてきて、だんだん収穫が減ってくることになる。
さあ、そこで日本が米を輸入するとどうなるか
アジア太平洋資料センター(PARC)というところで出している雑誌『オルタ』が去年の12月号で「GATT−自由貿易からの自由を!」という特集を組んでいる。「自由貿易からの自由」とは、知らないひとにとっては理解しにくい題の付け方だけど、その意味はとても鮮明なのよ。
要するに「自由貿易」との美名のもと、そのツケやシワヨセは誰にくるか、ということ。これはもう、第三世界のひとびとを直撃することになる。日本が高い金を出して米を食べるということになれば、第三世界では日本向け輸出する「換金作物」として、自分たちが食べることもできない米を作ることになる。
それを支配するのは、結局日本の商社とか、アメリカ合州国を拠点とする穀物メジャー(多国籍企業)なのだな。
このシワヨセやツケを払うのは、第三世界のひとびとだけではない。日本の農業や農村も同時に崩壊に向かう。そう、バナナやオレンジや牛肉やレモンと同じように、国内産のものは、どんどん消えていく。消えていくとどうなるか。「自由貿易」の結果、食べるひとの側も国内産のものを選択する余地がなくなる。
一体、こんなものの、どこが「自由」と言えるのか?
「自由競争」なんて聞こえはいいが、途方もないハンディがはじめからあって、強いものが勝つことがあらかじめわかっているのに。
食物の安全性とは、いったいどういうこと?
ところで、消費者側の、食べるものが安全でありさせすればいい、という視点には、どうやら落し穴があるような気がしてくる。
安全というのが、「自分たちが安全であればそれでいい」という問題にスリ代わったとき、ことの本質を見失い、全体像が見えなくなる。「自由貿易」というのが、誰にとっての「自由」なのか、そして自分はどちらの側に立つのかをはっきりさせなければ、どんどん落し穴にハマっていく。
ぼくたちには、食べるものが、どこででき、誰がつくったものかを知り、それを選択する権利があるはず。その権利を「金の力」で奪おうとするなら、それに反対する権利があるはずだ。
そして、それは、知らなければ行使できない権利とも言える。農業を少し知ったぼくには、このことは農民の問題ではないことは明らかだ、と見えてくるようになった。
「金」のチカラによって、どんどん自分たちの権利を奪われ、日々「自由」を剥奪されていくぼくたち自身の生活のあり方を根本から見直していくことがなければ、食べるものに限らず、生活の全領域から頭の中まで、蝕まれていく。
結論として、「米の自由化」というのは、「金」による支配の問題だ、ということだよな。つまり、米はそのひとつの切り口であったにすぎないということを強調したいと思う。ガット農業交渉というものも、もともと農業を「金の力」で支配したい国々の利益調整だったのね。「自由貿易」の「自由」というのが、誰にとっての「自由」かは、いまさら言わなくても、ねぇ、ミエミエだと思いませんか?
昨年の冷害・凶作で、農村から米がなくなった。一方、都市にはコメはあった。この矛盾はどこからきているのでしょうかねぇ。
農家の多くは怒っている。その怒りはエゴからだけではない。それよりも、自分たちの「生き方」が、「金」によって左右されてしまうことに対する怒りであり、「百姓が百姓として、ふつうの努力でふつうに生きていけない」ことに対する怒りでもある。さらにそういう状況を招いた政治が、実は特定少数の利権を守るための政治であることが、農家にとっては、実感として直感的に見えるからこそ怒るのだ。しかし、怒りながらも表面上は穏やかでこう言う。「わたしらは別にそんなに困らないけれど、イザというとき一番困るのは、消費者のひとなんじゃない」と。
以上、ガット交渉合意にまつわる問題は、政治・経済、環境、石油文明の見直し、食生活などなど、あまりにも多岐にわたるので、本稿では問題提起のさわりにとどめておこうと思う。
ワーキング・グループ会議で出た質問にも、答えないことにする。だって、まともに答えようとすれば、一冊の本になるくらいの説明が必要だし、どれもこれも単純に答えられない質問ばかり。ぼく自身も勉強不足で結論をつけられないところもあるしね。
それに本物の答えというのは、それぞれが自分で調べて、自分で考えないとダメなんだと思うから。人の考えばかりに頼っていると、そのツケは、いずれ払わなければならなくなるというもんだぞぞぞ。
ブック・ガイド
『地球環境・読本』別冊宝島101 JICC出版局
『井上ひさしのコメ講座』
岩波ブックレット133 岩波書店
『続・井上ひさしのコメ講座』
岩波ブックレット227 岩波書店
『日本のコメが消える』森島賢著
東京ブックレット1 東京新聞出版局
『どうするコメ』雑誌・現代農業臨時増刊 農文協
『日本の漁業はこのままでいいのか』角田尚子著
週刊エコノミスト1月25日号 毎日新聞社
−−以上、安い本と、刺激的な本、それから日本の農業がこれからどのようにヒドい状態になっていくか、対比してもらうため、友人でもある角田さんの漁業についての小論文をあげておきます。この角田さんの文章を読むと、日本のすさまじい「大国」ぶりがよーくわかると思うんだ。