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放射性れんこん Vol.10

1993.1.26発行


目次
  1. 芦浜原発反対 南島町民3,500人と行動を共にして(レジN)
  2. 脱原発派錯乱怪文書事件(はたくん)
  3. NO!プルトニム 東海村キャンプ報告(レジN)
  4. 現場告白シリーズ 第二回 「私の会社」(もぐ)
  5. 劇団どくんごは劇団だから芝居をする(doino)
  6. クロスワード・パズル(たかちほまる)
  7. フィリピン旅行記(KJ)
  8. 玉姫公園での年越し------ 92-93 山谷越年闘争(カタリ)
  9. 全障連大会に参加して(涼)
  10. 原発用語の基礎知識 その3:原発ってクリーン?(McOtto)

※リンクしていないものは、手書き、漫画などの為ホームページ上には
 掲載しておりません。
 ご覧になりたい方は放射性れんこんVol.10をご覧ください。


芦浜原発反対
南島町民3,500人と行動を共にして

 [レジN]

○ わしも行くぞ!南島へ

東海村から帰って、そろそろ日常生活を取り戻しつつあるころに、またまた三重のzippさんからじっとしていられなくなるような呼びかけがあった。(あわてて書いたようで、誤字、読めない字などがある。)

★タイトル (FUH98133) 93/1/10 22:42 ( 16)
芦浜>待に待った反撃の狼煙があがった!?
★内容
芦浜原発反対闘争30年。初期は漁協を中心とした住民ぐるみの闘いで阻止した。その闘いを担った人たちは今やじぃちゃんばぁちゃんになっている人たちだ。70年代後期、第二次芦浜闘争を担った人たちは、有志会という名に代表されるように各々の浦の有志たちが自発的に闘った。そしてその人たちはいまや壮年の域に達している。
そして今、2月の漁協総会を迎え、今や古和浦漁協がひっくり返るのではないかと聶かれているこの土壇場に、南島の若い漁師たちが動きはじめた!!母たち、有志会もともにその動きに呼応しつつ…。

1月17日 南島町神崎にて地元の人たちが原発反対集会・デモを開きます。

何年ぶりの地元のでの集会なんだろう?少なくとも、ぼくがこちらに帰ってきてから初めての南島集会です。応援及び∴齒盾ノ参加しませんか?

  涙が出そうなほど嬉しいげんげのzipp

いったい南島町で何が起ころうとしているのだろうか、芦浜に関して何か状況が好転しようとしていることは間違いない。関西の人達が、「行くぞ、行くぞ」とどんどん名乗りを上げている。「うーーん、もう、わしも行くぞ!」と突然決意して、1月16日の夜行に乗り込んでしまった。

○ 集会は簡潔明瞭、あっと言う間に

南島町の神前についた時には、もう集会場には大勢の人達が集まっていた。町の青年団風の人が大勢で車の誘導やらなんやら、集会のために動いている。
知合いの人達に挨拶したりしているうちに集会は始まる。かなりの人数がいる。地元の人達がほとんどだ。日の丸ハチマキの人も多い。私は、自然とそういう中に紛れ込む形になってしまう。
演壇に立ってしゃべる人は、みな簡潔明瞭だ。せいぜい一人3分程度しかしゃべらない。7、8人程度しゃべっただろうか、集会はあっという間に終ってしまった。参加者もさほど興奮している様子はない。拍手も、そこそこ。この辺は少し意外だったが、集会はデモに出る前のおまけであることを私はまだ知らなかったのだ。

集会の簡潔さに感心している間もなく、直ちにデモに出発する。気が付いたら、もう先頭の部隊が旗竿を何本もはためかして集会場前の道を歩いていた。
この時、この集会に参加していた人の数の規模が把握できてきた。どんどん会場から出て行く。私の立っていたあたりの人達も出て行く番になった時には、もう前の方にかなりの人達がいる。一方で集会場には、まだまだ人が残っている。「2000人が目標と言っていたが、これは確実に達成しているな」と実感できた。

○ いよいよ、デモに出発

前の方で出て行った人達は、何かものすごく元気に旗振りながら出て行ったが、一体どういうデモになるのか、わくわくする。でも、宣伝カーのようなものもないし、ハンドマイクを持って叫んでいる人もいない。なんとなく何をしたらいいのかわからない。それとなく「原発反対」とか言ってみたりする。
デモは部落単位でまとまっているのだろうか、そういう隊列は、「原発反対エイエイオー」とか言って気勢を上げているようだ。男の人達は「原発絶対反対」のそろいのウインドブレーカ、女の人達も、白っぽいそろいの上着みたいなのを着ている。そういう隊列はプラカードも、林立していて、書かれている内容も実に豊富でおもしろい。
私のいた隊列は、私のようなよそ者がちらほらいるところで、団結した部落の隊列というのではないようだった。でも、そのうちどっかのおじさんが、「セーノー」というかけ声で、「芦浜原発反対!」という叫びをまとめてしまった。
「セーノー」「芦浜原発、ハンターイ」
こういうのも、シュプレヒコールと言うのだろうか。みんなで地引網引く感じで、いかにも漁業の町らしい。

○ 感動的な盛上がり

この日に竣工式が行われる予定だった、「ドームプラザ・なんとう」にさしかかると急にデモ隊の歩みが鈍くなる。みんなが、その前で気勢を上げるからだ。竣工式なんぞ、実行できるはずがなかったということが一瞬に理解できた。 「ドームプラザ・なんとう」の向こうに、先頭の旗振り部隊が遠くに見える、すごく元気そうだ。その先頭がUターンして戻ってきて、これからUターン地点に向かうデモ隊とすれ違うことになるから、いやがおうでもデモは盛り上がる。その上、「ドームプラザ・なんとう」の玄関前に十数人の旗振り部隊が腰をすえて陣取ってしまった。その前をデモ隊がすれちがっていくのだ。

実に感動的なシーンだった。旗振り部隊の前をすれちがう、おっちゃん、おばちゃん、にいちゃん、ねぇちゃん、みんなものすごくいい顔をしている。すれちがうお互いが互いに手を振り励ましあい、かけ声を合わせる。旗振り部隊のにいちゃん達は、いったいどこまで体力があるのだろうか、延々旗を振り回し続けている。ニコニコしながら、隣のやつに振り回し方で負けてなるものかという勢いだ。
原発に反対することが、こんなにまでうれしいことなんだろうか。あ、でもそうか、そうに決っているのだ。何か自分までとてもうれしくなってきた。「セーノー」に合わせて叫ぶ私の「芦浜原発、ハンターイ」にも一段と力がこもる。

デモ隊の中にいて、芦浜に原発なんかできるわけがないと思った。これだけの町の人達の声をどうして押し殺すことができようか。そんなことが、可能だというなら、それはもう原発云々を越えて、民主主義への冒涜だ。

○ 元気をもらって、ついニヤニヤ

もとの集会場にデモ隊は戻って行く。集会場に入るところで、一生懸命参加人数を数えていた人が数人いた。後で聞いたところでは、3,000人まで数えて後は、わけがわからなくなったので参加者3,500人と発表したそうだ。
「セーノー」「芦浜原発、ハンターイ」は、結局最後まで続いた。集会場に戻って来て、互いに御苦労さんと言い合って終った。集会・デモが大成功だったのでみんな充実感で一杯だ。私も、なんだかニヤニヤしているような気がした。

中部電力は、「一部の町民と外部の人間が・・・」などと言っていたようだが、外部の人間なんて100人程度しかいなかった。私に言わせれば、南島の人達から元気をもらえたのが、たったの100人程度とは、もったいないことをしたもんだ。元気をなくしている都会の人達はみんな行けばよかったのだ。

私達は、デモの後、じっと見ていたいような美しい海の風景を見ながら、その海に生きる人々の家にビラ入れに行ってから解散していった。
とてもいい一日を南島で過ごさせてもらって、まだ余韻が残っているわけだが、まだまだ南島町にとっては安心できない日が続く。芦浜に原発を作って欲しくない人は、これからも注目していこう。
今度何かある時は、誰か一緒に行こう!!

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脱原発派錯乱怪文書事件

 [はたくん]

 現在、首都圏や三重県などで脱原発運動に関わる人たちに対して、奇妙で悪質ないやがらせが大々的に行われています。あなたの所には一風変わった意味不明な手紙などは来ませんでしたか?え?なんかれんこんネットから、サザエさんの絵の書いてある謎のハガキが届いたって?あ、あれは「年賀」って書き忘れたから12月のうちに届いちゃった年賀状です。(^^;)
■ここでは、私が今までいろんなところで聞きかじったことを、おおざっぱに紹介します。このいやがらせ事件の全貌は、今のところ全くわからないので、もしかしたら私の知らないところでも、もっといろんなことが行われているのかもしれません。

■三重での事件
 事件は実はずいぶんまえから発生していました。三重県で、芦浜原発の建設に反対している柴原さんには、何年も前から、全国いろんな所の集会や講演会のビラなどが、差出人の名前の無い封筒に入れられて送られてきたり、頼んでもないのに英会話の教材が送られてきたり、更に引っ越しのときなどは、柴原さんの名前を名乗って、ニセの引っ越し通知が周辺のひとたちに届きました。同じようにして、ニセの年賀状も出回りました。内容はいずれも、読んだ人に柴原さんのことを誤解させるような文面でした。それによってトラブルが起こるのをねらったようです。

■事件拡大前
 去年の夏、こんどは東京の原子力資料情報室の高木仁三郎さんの名前でニセの暑中見舞いが全国に出回りました。そのハガキには、高木さんは最近、脱原発運動があまりおもしろくなくて疲れてる、とかいう事が書いてありました。更に、そのあとに、原子力資料情報室の資料置場が火事で焼けてしまったのでカンパをお願いします、という内容の手紙が出回りました。実はそのニセカンパ要請手紙が出回る前、実際に火事があったので、その事を知っている人などはよけいに信じてしまって、困ったことというか、うれしいことというか(?)、カンパが実際に集まってきたそうです。

■事件の本格的拡大
 そんなこんなしているうちに、こんどは都立大に勤めている中田さんの名前を使って、B5版で数十枚にもなる、超長文の「アンケ−ト」が出回りました。ちなみにこのアンケ−トは、わたしの所にも来ました。このアンケ−トで、犯人は「こっちはここまでしってるんだぞ。まいったか」といったようなニュアンスで、様々な人について、あることないことをごちゃまぜにして誹謗中傷しています。ちなみにれんこんネットや、わたしの名前までそのアンケ−トに載っていて、まったく光栄なかぎりです。
 どうやら、そのアンケ−トは、「これから攻撃を開始するぞ」という宣言のつもりだったようです。その後、首都圏を中心とした、主に反プルトニウム輸送のキャンペ−ンをやっている人たちに対して、三重の柴原さんに送られたのと同じような怪文書が届くようになりました。
 いろんな地域の集会のビラだとか、誰だかわからないけど人が写ってる写真だとか、たんぽぽ舎の郵便振替の伝票(郵便ポストから抜き取ったらしい)だとか、グリ−ンピ−スブラジルの環境サミットの時の出店?の写真だとか、数人しか出ていない会合のレジュメだとか、何かの手書きの原稿1枚とか、千円札だとか、ピ−スネットの私の連載をコピ−したものだとか(これまた光栄なことですペコリ)、天皇がホ−ギョしたときの号外新聞だとか、コンピュ−タ−ウイルスについての新聞記事だとか、湾岸絵はがきだとか・・・。
 まったく見ていて楽しいのですが、こんな内容の郵便物がかなり多くの人に、昨年暮れから毎日届くようになりました。
 しかし、それだけなら、言ってみれば「無視すればすむ問題」だったのですが、そのうちウソの集会案内のハガキが出回ったり、ある若い女性の家にテレホンセックスしようという電話がたてつづけにかかってきたり、ピースネットのミーティングの時に頼んでもないピザやお弁当が配達されたり、まぁ、ちょっと一線を越えた悪質な手段になりはじめました。

■謎の犯人グル−プ
 これだけの事をする犯人も、たいしたものです。全国の情報を集めて、色々コピ−して発送するわけですから、その苦労は察してあまりあります。それに切手代だけだってばかにならないから、それなりに資金もあるみたい。様々な会合に顔を出さないと情報集められないし、いろんな所の消印で発送してるし、たんぽぽ舎のポストの中をあさりに行ったり、資料情報室で発送した郵便物を抜き取ったり、どう考えても一人じゃ出来ないおシゴトです。
 いったい、どこのどなたがこういった大変なシゴトをしてるんでしょう。公安警察屋さんが関係してるんじゃないか、という話も結構信憑性があるかもしれません。
 いずれにしても、脱原発の運動をサクランさせたいって思ってる人たちがやっていることは間違いないわけで、私は、電力会社の役員クラスのおじさんが(おばさんでも可。ちなみに役員の中に女性もいるのかどうかは不詳(^_^))ヘンに危機感をつのらせて、ポケットマネ−かなんかで人を雇ってやってるんじゃぁないかと勝手に想像しています。もちろん、その役員さんは警察の幹部の人とも仲良しで(自分自信、昔は警察の幹部だったとかもアリ)全国のグル−プの情報を教えてもらっているんじゃないかなぁ。おまけに郵政省のおエラいさんとも知り合いで、郵便物を抜き取ったり、切手とかもらったりしてるんじゃないかなぁ(^^;)。それとも、私の想像するようなポップ?な人達じゃなくて、もっと、暗闇で暗躍するなぞナゾの集団、とかがあるんでしょうか。とまあ想像は膨らむばかりです。(^^;)

■さいごに
 あなたの所に、まだ怪文書は届いてませんか?もしそれらしきものが届いたら、れんこんネットか、原子力資料情報室に一報していただけると、とってもうれしいです。ちなみに、この怪文書事件について、原子力資料情報室やピ−スネットニュ−ス他でどう対応するのかは目下思案中のようです。なかなかいい案がなくて、困っているので、ぜひぜひあなたのアイデアを聞かせてください。
 あと、この文章を読んでいるであろう犯人さんへ。ごくろうさまです。お手柔らかに。でも一応法律違反ですよあなた。ま、お互い楽しくいきましょう。

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NO!プルトニム 東海村キャンプ報告

 [レジN]

1、はじめに
ガキの頃からインドア派で、要塞化した自分の部屋で暗い生活を満喫するのをよしてしていた私なのでありますが、最近、三重の一派の影響を受けて、しっかりアウトドアするようになってきました。
そしてとうとう今年は、新年をキャンプしながら迎えてしまったのでありました。(ついに自分のテントまで買ってしまったのだ。)

しかし、いくらなんでも人間そんなに急に性格が変わるもんではありません。私が、突然「キャンプ大好き、冬でもいくぜ!」となるわけはないのであります。
「あかつき丸」という、何か希望に満ちた明るい明日を約束してくれるような名前の舟が、実はプルトニウムという世にも恐ろしい物質を運んでくる舟であったことは、もうみなさん御存知でしょう。そいつが何かコソコソ逃げ隠れしながら正月あたりに東海港に来るらしい、というのが昨年末にわかっていた情報でした。
「そりゃーいくら何でも、黙っていて、『あら帰っていたのね』ですますわけにはいくまいなぁー」と思っていたら、三重の一派の一員が「キャンプするぞ」と声上げて、それで話は決ったというわけなんでありました。三重の一派の一員に連動して、パソ通関西方面部隊も押し寄せてきました。やはりこういう時の関西方面のパワーはおそるべしでありますね。

「自分達が作ってしまったものが帰ってくるというだけなのに、今更何言うとんじゃい」と言われるのはごもっともなのであります。でもねぇ、今更でも何でも、ちょっとでもこういうものを作らせない方向へと、できる時にできることをやるというのは意味のあることだと思うわけです。

2、何故、プルトニウムが?
プルトニウムに関しては、気持ちの悪くなる様な婚約報道嵐が発生する前に、けっこうマスコミでも解説されていました。マスコミの報道を見るだけでも、かなり難題を抱えていると、誰もが思ったことでしょう。
原子力というやつが、「石油に代わるエネルギー」などという看板を掲げるからには、プルトニウムを利用する核燃料サイクルの実現が至上課題なわけです。ウラン235を原発でじゃんじゃか使えば、(これ自体、相当怖い話ではありますが)石油の枯渇を論じる前にウランがなくなることを心配しなければならないのは、動かし難い現実なのです。
だから、通産省とか電力会社とか、原子力に一生懸命な人達は、何がなんでもというわけでそれなりに必死なのですね。

まぁ、必死になるのは彼らの勝手なんでありますが、イギリスやフランスの人達にえらい迷惑かけて、あかつき丸の航路の沿岸諸国にも顰蹙買って、あげくの果てには危険な物質を孫子のもっともっと先の代にまで負の遺産として残そうというのは困ったものです。

そこまでしてでもやろうとしているプルトニウム利用計画というのが、すでにとっくに破綻をきたしてボロボロになっているのは、周知の事実です。

プルトニウムを燃やすはずの高速増殖炉「もんじゅ」(これに関しては、放射性れんこんVol.8 に解説があります)にしたって、昔の計画ではとっくに動いているはずなんですが、もともと無茶な計画がその通りいくはずもなく、今年の10月に臨界だとか言っています。これにしたってどうなることやらあぶないものです。
実際、あかつき丸入港の翌日1月6日の新聞報道によると、「原子力委員会はプルトニウムの増殖・発電を目的とした高速増殖炉の開発を現行の計画より大幅に先延ばしする方向で検討に入った」ということです。これで、2030年ころに実用化する予定だという高速増殖炉は、さらに10年くらい実用化が遅れるそうです。

これはどうもあの「石油は後30年でなくなる」とかいう話と似ています。「もう10年くらい前からそういうこと言っているから、そろそろ後20年になるんとちゃう?」という話が出そうなところで、「思ったほど、需要が延びなかった」とか「新しい油田が発見された」とか言って、「やっぱり後30年」となるのです。
「30年後には、高速増殖炉が実用化されて・・・」とか調子のいいこと言っておいて、後20年に近付いてくると「予定がちょっとずれました」となるわけです。さすがに最近「石油が後30年・・・」を聞くことはなくなりましたが、同じ論法が別の所で活用されていたのですね。

ここで気を付けないといけないのは、「高速増殖炉の開発が遅れているから、プルサーマルでプルトニウムを使っていく」というような話に安易にだまされないようにすることです。プルサーマルというのは、既存の軽水炉でプルトニウムを燃やすことを言うのですが、マスコミの報道なんかをうっかり聞いていると、プルサーマルはもうすぐにでも簡単にできるような印象を受けてしまいます。
ところが、プルサーマルなんて、まだやったことない方式なんでありまして、原子力委員会は、95年からやりたいと言っています。かなり原子炉が不安定になり安全性上問題があるという話も聞きます。原子力委員会の「やりたい」が予定通りできた例がないことを考えると、どうもそんな簡単にどんどん導入できるような方式ではなさそうです。

ここで、原発に詳しい人なら、「新型転換炉があるではないか」と言われるかもしれません。そう言えば、「日本独自の技術で開発中」と一時期脚光を浴びていたこの新型転換炉の話題は、すっかり聞かなくなりましたね。「ふげん」はどうなってしまったのでしょうか。
「あかつき丸」関連の報道を見ても、「新型転換炉」とか、「ふげん」の話はほとんど出ていません。

これは、どうも「傷ついているので、そっとしておいてあげましょう」というのではないかと私は思ってしまいます。高速増殖炉以上に未来が見えないというのが、新型転換炉の実体なのでしょう。

要するに、どう考えても政府の考えているプルトニム利用計画は、絵に描いた餅でしかないようです。
絵に描いた餅でもって、プルトニウムをどんどん蓄えよう、下北にも再処理工場を建設してプルトニウムを精製していこう、というのですから、ひどい話です。
もちろん、絵に描いた餅であるからまだいいのでありまして、これが計画通りにプルトニウム利用が進んだりした日には・・・、もう青ざめるのみであります。

3、「今のうちならまだ・・・」と思って
プルトニウム利用計画が絵に描いた餅である今のうちに、何とかプルトニウム利用を止めさせていきたいものです。
そういう気持ちが多少なりともあって、今回の東海村キャンプにつながったわけです。

「あかつき丸」の入港時に東海村でキャンプするとなって、これはもう凧上げしかないというのは、即座に決ったのですが、そこで何をアピールするかにはちょっと迷いました。私がれんこんネットに書いたメッセージをちょっと引用しておきます。

Title: 東海村キャンプイン企画
Subject: スローガン、再考中
Date:8:04pm 12/24/92 Author: レジスターN (レジN)

 「プル来るな!」
というのは、「じゃ、どこかよそのとこに行けばいいのか」となってしまいそうで、どうもよくないなぁー、という気がしてきました。

 「プルいらん!」
でもいいのですが、すでに、あかつき丸の中にあるわけで、これはどうしようもないのという現実に目をそむけているような気がします。

 「プルやめて!」
というのがいいかなぁー、などと思っております。
でも、これは「お願い」的な姿勢がどうも、いやなんですねぇー。

 「プル許さん!」
うーん、あまりにスローガン臭いスローガンのような感じですね。

 「プルやばい!」
「お知らせ」的では、ありますが、これでもいいかもねぇー。

なんで、頭がプルで始まり、5字で終って、最後がビックリマーク、というのにこだわらねばならないのでしょう。そんな必要は全然ないのでした。
ただ凧に書いて上げるとすると、字数は少ないにこしたことはないのですが。

とういうわけで、まだしばらく考え続けてみましょう。

すでに1トンにもなるプルトニウムが、「あかつき丸」の船内にあるという事実、これは非常に重い事実なわけで、それでいろいろ悩んでしまうわけでした。

で、結局落ち着いたのは「NO!プルトニム」でした。プルトニウムというのをプルと省略したりせずにしっかり書きたいというのと、それを作りたくも使いたくもないということを表現したい、ということを考えてこうしたわけです。この表現は、どっかの横断幕かなんかでも見ましたので、同じ様なことをみんな考えたのだろうと思います。

4、いろいろあったキャンプ生活
自分の生活を24時間まるごと持って行くキャンプともなると、やはりいろいろな事があります。

私は、昼はボーっと日向ぼっこをするか、凧上げして遊び、夜は酒飲んでワイワイ騒いで、他には別に何もしない。という怠惰なキャンプ生活を予定していたのですが、そうもいかないのが現実でありました。
キャンプに集まっている人は、もうみんな超スーパー級の元気者ぞろい、あれもやろうこれもやろうと、現地でやろうということには尽きることがありません。
根がインドア派の暗さを引きずる私も、ビラまき、デモ、凧作りと、ついつい引っ張られていろいろ動いてしまったのでした。

真冬のキャンプの特徴は、やっぱり「寒い」というあたりまえのことでした。こういうのは、やはり経験がものを言う世界ですね。持って行くべき防寒用品とか、どういう風にして寝たら寒くないか、などというのはノウハウ的要素が強く、「次回はきっとうまくやれるぞ」と思ったのでした。(でも、次回なんかあるのだろうか?)

その「寒さ」をのぞけば、やはりキャンプは楽しいものです。
いろんな人達が差入れを持って訪ねてきてくれて、そういう人達や、現地で会った人達と、焚火を囲んで飲んだり食ったりしながら、いろいろとおしゃべりができたというのは、とても贅沢な正月でした。
ただ行って、飲んで、食って、ワイワイ言って楽しく過ごして、それでもってプルトニウム反対の意志表示にもなっているというのですから、これほど楽な運動はありません。なんで、もっとみんな大勢来ないのかなぁー、と不思議に思えるくらいでした。今回来なかった人達は、いい機会を逃してしまいましたねぇー。

今回のキャンプは文明地と目と鼻の先で行われましたから、いざとなったら車で来た人に乗せてもらって、文明の恩恵にあずかれに行けました。コンビニにもいけるし、お風呂にもいけるというわけでした。「その文明は電気が支えているのであって、それを支えているのは原子力なんだぞ」などというアホなことを言う人はいないと思いますが、原子力がなくても風呂はわくということをあたりまえのことを一応言っておきます。
ちなみに私は、じぶんの飯の種もエレクトロニクス関係でありまして、電気がなくてはどうにもならない世界で生きております。もちろん、そこでも原子力はいらないことは言うまでもありません。
ましてや、プルトニウムがいる人というのは、原爆製造業者くらいなもんでしょう。

5、「あかつき丸」入港日
「あかつき丸」の入港日、それなりに緊張感があったかというと、全然そんなことはありませんでした。風が吹いて凧が上がってくれればいいなぁー、と思いながら、精一杯の防寒体制に身を固めて起き出したのが、朝の4時でした。
前夜から増えた参加者も交えてコーヒータイムを過ごした後、キャンプ地の人達みんなが、それまでに準備してきたプル抗議用アイテムを持って、東海港に近い浜辺へと移動したのが5時半ごろだったような気がします。

後はもう、超スーパー級の元気者達のことですから、それぞれが勝手に得意のパフォーマンスで精一杯プルトニウムに抗議の意志を示しながら、「あかつき丸」を迎えたのでした。
私も、凧を上げれば後は何もしないで凧と「あかつき丸」を見ている、という怠慢路線のパフォーマンスを貫徹しました。自分の作った凧が「NO!プルトニウム」というメッセージ上げているのを下から見ているのは、それなりに気分のいいものでした。

緊張感というようなものを高めていたとしたらそれは、海上保安庁やマスコミの舟とヘリ、それに大勢いた警官、警備員でした。特にヘリは一機でもすごい音がするのに、16機を超える数が飛んでいたのですから、それはすさまじいものでした。
あれだけヘリが飛んでいてよくぶつからないものだとも思うし、もしぶつかって「あかつき丸」の上にでも落ちたらどうなるのだろうと、多少心配にもなるくらいでした。

6、あー、これから一体どうなるの
終ってみれば、あまりにもあっけない入港だったような気がしました。地上で最も恐ろしい物質が大量に運ばれてきたのだという実感はあまりありませんでした。
こういう輸送が何度も積み重なれるようなことがあれば、「あ、またか」位にしか思わなくなってしまうかもしれません。そういうことを考えていると、少し悲観的にもなってきます。下北の再処理工場だって作られてしまいそうだし、プルトニウム社会にこのまま突入してしまうのでしょうか。

でも、プルトニウム利用を推進しようとしている人達だって、かなりあせっているようであることは間違いないようです。今回のマスコミ報道でも、かなりプルトニウム社会の将来には疑問を投げかける報道が多かったし、それに対して、科学技術庁あたりはきちんとした説得力のある説明もできていないようです。
このキャンプを終えてから、私の家にも、いやがらせ怪文書というのが送られてくるようになりました。私のような、たいして運動らしいことをやっているわけでもない人間にまで、このような行為がなされるようになったという事実が、推進側の人達のあせりを示していることではないでしょうか。

今回のようなキャンプでも、わずかながら人々の目を東海村に向けてもらうことに成功したようであることを考えれば、まだまだ私達のこういう行動は積み重ねていく余地のあるところなんでしょう。
今度またこうした機会があったら、その時は是非、一緒に焚火を囲んでお話しましょう。

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現場告白シリーズ 第二回 「私の会社」

 [もぐ]

私はこの春、某短期大学(なすびと同じ)を卒業し就職しました。
本当は研究生として(別名専攻科ともいう)もう1年大学に残って勉強する予定でしたが、家の事情等で、就職することになりました。(バブル崩壊等を考えたらよかったかもしれません)
というようなことで、自分のやりたりたい事をやらせてくれる会社を探し、その会社に夢と希望をたくし、みごと打ち砕かれた?事を書き綴ろうと思います。

★★ 内定 ★★

一昨年前まで、売り手市場と言われていた情報産業への就職を希望していた私は(それ以外はあまり興味がない?)、就職活動も終りの9月になってから開始しました。9月ということで、就職先があるかどうかというという不安を胸に東京に上京しました。ところが流石に売り手市場というだけあって、結果8社から内定(内数社からは何度も電話があったり、2度会社に呼ばれたりしました。)をもらいました。結局、某教授の紹介で行った会社が、私のやりたい(勉強したい)と思っていた、マルチメディアを業務にしているといいきりしかも、その部へ配属してくれると、口約束ではあるけが、そう言ってくれた。と、いうことで、わたしは悩んだあげくその会社に就職を決めました。

★★ 入社 ★★

就職活動のとき、『マルチメディアをやらせてくれる』という言葉を信じ、4月1日9時に出社しました。するとそこには社長や部長等のお偉いさんがたが待っていました。結局50分くらいいろいろとお話し(雑談みたいな感じ)をすると、私を兄弟会社の新人セミナーへ出席させその日はそれだけで、終りました。次の日からは4日間外部のセミナー(公演会)へ行かされ、4日目のセミナーが終了してから、会社に戻りました。すると、「明日からここに配属になるから」と人事部の人に言われ地図まで渡されました。おや??と思い幾つか質問すると、なんとあれ程嫌っていた『出向』でした。この頃まだ何も解らなかったので、「あ、そうですか。解りました」と言って次の日から某コンピューター会社(兄弟会社)へ出社しました。

★★ 出向先 ★★

4月8日、出向先であるコンピュータ会社へ行き、色々と会社の事などを2時間くらい説明を受けました。その後4日間くらい何も仕事も、研修もなく遊んでいたような気がします。
出向して4日目、私が作業ルームで環境設定等をして遊んでいると、そこで会議をしていた部長の口から「この仕事××君に(私のことです)やらせてみようか?」という声が聴こえました。心の中では、「ここには新人研修もないのかい?」と言っていましたがとても口からは出ませんでした。
結局会議終了後に「打ち合せやるから」と呼ばれて、デバッグの作業を依頼されました。

★★ 数カ月がたって ★★

会社にもなれて、ふと気がつくとまわりの技術者のレベルがとても低いということを感じました。SEと名乗っていながら、自分のマシンのメンテナンスも出来ないひとばかりでした。もう何時頃からか忘れましたが、マシンのメンテナンス私の仕事になっていました。
数カ月がたち、自分の入社した会社の人達と飲みに行って色々とお話しをすると、「出向部員は二度と会社に戻って来れないよ!」という言葉を聞きました。その言葉を聞いて夢も希望も打ち砕かれました。また、マルチメディア部も廃止したと聞き、2度ショックを受けました。

★★ オフィス ★★

出向先のオフィスでは、情報処理技術者なら誰でもする様なことが出来ません。何が出来ないかと言うと、自分の机でUNIXマガジン等の技術雑誌を読むことができないのです。読んでいると「仕事をしろ!」というような冷たい視線が部長からとんでくるのです。(出向先の部員は本を読める環境でも読む気がないそうです)。
このためがどうか解りませんがオフィスにはあまり人がいません。
(ほんとうは××さんを嫌っている(部長だよ)からだそうです。)
仕事に支障をきたすような人がオフィスにいるので皆作業ルームにいます。

★★ 移転 ★★

11月の下旬に、出向先の会社がグループ全体で移転する事になりました。もちろん私の出向先も移転しました。
オフィスに人がいないと言うことに腹のたっていた?部長は、マシンを各自の机の上に置くことにしました。しかしこのため机が狭くなって仕事がしずらくなってしまいました。また、オフィスが使いずらい形をしているため、なんか仕事にならない様な気がします。(本当に最低のオフィスだ!!)

★★ 吸収? ★★

なんと、移転先でしていた仕事を今度は私の入社した会社が、業務委託と言う形でやることになりました。私は一応本社勤務になったのですが、作業場所は、出向していたオフィスで会社の名前が変わるだけのようになりました。
これで、この嫌いな仕事をずっとやらなければならなくなってしまいました。
結局、吸収された形で、社名だけが残った様になりました。もうこれで自分がやりたいと思っていたことがすべて、出来なくなりました。
もう、夢も希望もありません!!

★★ 最後に ★★

いま、私は最低の環境で仕事をしています。
これでも、一応給料についてはなんら問題がないので、なすび君にくらべたらまだましかも知れません。でも、仕事内容については本当に最低です。
情報産業で仕事をしている様な気がしません。
今、真面目に転職を考えています。でもお金がないので一応もう1年我慢して、それから転職しようと思っています。そのときはどこか良い会社を知っている人紹介してください。
まだまだ会社に対して不満等はありますが、それはまた今度ということにしましょう。

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劇団どくんごは劇団だから芝居をする

 [doino]

 劇団どくんごは劇団なので、演劇をします。「どんな演劇をやってるんすかぁ?」という質問には、うまく答えられたためしがない。(=宣伝がヘタ。)ですからそれは見てのおたのしみということにして、 先の質問を「どんな<風に>演劇をやってるんすかぁ」という質問に曲解して、少し書いてみます。
 演劇をする・・・ふつう、どういうイメージで捉えられているんでしょう?
 「そりゃーやっぱ、脚本家が脚本を書き、演出家がいてキャストをふりわけ、役者は自分の台詞を覚えて動きをつけて恥ずかしいのをこらえてあるいは恥ずかしさをマヒさせてリハーサルして本番をするんでしょ」って感じかな。稽古場でこわーい演出家がヘタくそな役者に腹をたてて灰皿を投げつける、というイメージがある人もいるかもしれないな。

 脚本家が脚本を書き・・・といったこともするにはするわけです。(灰皿が飛んだことはまだないけど。)でもね、そうしたいくらかでも直接演劇らしい(カッコイイ)仕事というのは演劇を作る全作業のうちの、ほんのわずかな部分なのね。あんまりにもわずかで、そういう仕事もあったのだと誰もがつい忘れていたりする。ホントです。
 演劇をするということはじつは、世に言う<雑用>だらけ。何かをコピーしたり、何かを買ったり、借りたり、電話をかけたり、服を着替えたり、手紙を書いたり、店を訪ねたり、歩いたり電車に乗ったり車を運転したり車を運転してくれるひとを探したり、ということばっかし。演劇らしい、と言える仕事でも、その<雑用>的な性格は変わらない。

 こういうことがありました。小道具の係にtくんというひとがいて。

 そのときにやろうとしていた芝居のラストで、語り部(男)が自分のはいている真紅のパンティを脱ぐ。脱いだパンティを客の頭上に投げて、語り部はいなくなる。すると誰もいなくなった劇場の中を赤いパンティがひら、ひら、と舞いおちてくる。とそういうふうに脚本に書いてあるわけです。彼の残したメッセージ、というわけね。しかし、ここではその意味はどうでもいいのです。さて、皆さん、それでは実際に手近なパンティを投げてみましょう。はいどうぞ。
 どうですか? ひら、ひら、と落ちましたか? そうです、・・・ポテ、と落ちるだけですね。とても脚本のイメージのようにひら、ひら、とは落ちてくれないでしょう?ポテ、と落ちたんでは、芝居の最後がまるつぶれ。それどころか、ひゅんポテ、では真っ暗な中で照明にねらうこともできそうにない。さあ、tくん、コマンド?

 パンティというのはゴムが入っていて、脱ぐとくしゃくしゃのカタマリになってしまうわけですね。そういう形状になっていないとやっぱりパンティらしくない。しかし、ちょっとやそっとの軽い布でもゴムでカタマリになってしまっては、なかなかひら、ひら、とはいかない。ここがムツカシイところです。
 いろいろなものを投げまわったtくんは、結局、ティッシュペーパーをクシュクシュ、とかるーくまるめたものが、もっともそれらしく見えてしかもイメージに近く落ちてくれることがわかったのでした。tくんはたった一枚のティッシュ(二枚重ねではよくない)に重くならないように霧吹きで色をつけ、あたかもゴムがはいっているかのようにギャザーをつけ、ふんわかした、ゲイジュツ品とも呼べるようなティッシュパンティをつくったのでした。

 そしてこれを如何に落とすか。劇場の天井はけして高くない。カゴにでも入れたら、それから落ちてきたのだとバレてしまう。せっかく研究の末につくりあげた偽パンティを妥協せず効果的に落としたいtくんは、2、3日稽古をサボりました。
 久々に登場した赤い目をしたtくんは、満面の笑顔で下宿で作成した新兵器をみせてくれました。劇場の天井にあっておかしくないもの、すなわち外見は照明機材にそっくりな「パンティ落とし器」。ボール紙で作ってあるのだが、塗料にこだわってにぶい金属質の照明機材にそっくりに仕上がっているではありませんか。テグス糸が仕込まれていて、それをひっぱると底が音もなく開いて例のティッシュパンティが落下してくるのです。す、素晴らしい!
 tくんが慎重にも慎重を重ねて仕込みをし、ひら、ひら、と落ちてくる真紅のパンティを実現させたのはいうまでもないでしょう。ちなみにかれは現在中学校の教師をしています。

 おわかりだとは思いますが、この例は、演劇にまつわる作業のうちのかなり創造的な部分に属するだろうと思われます。注目していただきたいのは、この仕事にして、役に立たなさ、その場しのぎてきな性格、応用のきかなさがきわだっているところです。これは読み物なのでついこういう面白そうな例を出してしまうのですが、じっさいのところ、演劇を続けていて深まる知識というのは、ロジャースの釘は安いけれども打っているうちに頭が取れてしまうからやめとけ、というような種類のものばかりなのです。
 もっとも演劇らしいおしごとの中心にある(と思われている)脚本を書くというおしごとも、じつは稽古場からの要請で「いまできるか、すぐできるか」というような追い立ての中で書かれているわけで、じっさいその環境は、そばやとその注文を催促する客とたいしてかわらない。

 それに加えてぼくたちはここ数年、自前で旅をしながら各地で演劇をするということをやっています。このせいで、ますますその演劇にまつわる<雑用>はその範囲の広さをますのでした。

 例えば、大きな鍋で作る夕食の献立を考え、味噌汁の具を求めて函館の市場を徘徊する。予算との折り合いがあるので、「今日は豆腐は無理だな、でも朝飯の納豆を2人でひとパックから3人でひとパックにすれば大丈夫かも知れない」とか。釜で十二合のご飯を風のある野外でうまく炊くにはどうするか。全国のどこに行ってもガスボンベをその場で補充してくれるところを知っている。とある天気のよい昼間にこのごろしめっぽくなって寝苦しくなった布団を干したいので、大道具で使って余った丸太を4トントラックの荷台にゆわえつける、その縛り方にコツがある、とか。子供を稽古時間までにいかに運動させて寝かせるか、ということにもいちいちコツがあるわけですよね。

 「なーんだ、愚痴かぁ」と思わないで。ここでは一応、そうではないのです。そこが演劇、ことに旅する演劇のオモシロさだ、とまずは言ってみたいのですね。けして抽象的になりきらない、あくまでも<雑>っぽくあるところに演劇の作業のおもしろさがあるのだと。
 演劇のけして逃れられない属性として、やるほうも観るほうも、ある時間同じ場所に待ち合わせ、顔をつきあわせなければならないということがありますな。こういう融通のきかなさもまた<雑>っぽいところに数えておいてもいいでしょう。
 そうしたスマートではない、身体のアクションをともなったものとしてしかありえないというところに演劇というもののオモシロサがある(に違いない)、と思っているわけです。

 ここ何回かの公演にはれんこんによく書き込んでいる人たちも観にきてくれました。これはたいへんにうれしい。同じ劇団の河内丸は前々からパソ通、れんこんに顔を出していて、その噂も時々聞かされていたんだけど、事実として浦和くんだりまで足を運んでくれるということがなければ、僕はパソ通になどついに興味はわかなかっただろうと思います。さらに、その観た芝居の感想をプリントされたログやあるいは放射性れんこんの誌上で、目にしなければ。

 考えてみるとパソコン通信などという身体からもっとも遠い、よくも悪くもスマートな(というイメージのある)メディアを通して、その対局にあるような演劇にひとが集まるようになる、というのはたいへん面白いですよね。
 れんこんのいいところは、ボード上で自足しない、そこにおさまりきらない関係が生まれる筋道をふつうのOFF会にしろ、芦浜キャンプにしろ、先日の東海村にしろ、あるいはこの放射性れんこんというメディアにしろ、ちゃんと確保しているところだと思うな。こういうひろがりのありかたはなかなか都会にはないものなのです。イナカには町の奇人変人が一人二人いて、彼や彼女をホストにして非電子ネットができているのを時々みかけますが、都会では、反原発にとりくむ人は天皇に興味がなく、フィリピンにとりくむ人は大学の管理強化は知らない、という運動の分業化が進んでいて、たいへんにおもしろくない。そういうなかで、れんこんの存在はこりゃかなり貴重だと思うのです。
 ぼくたちの旅もまた、ぼくたちの生活や表現の<雑>を積み込んでそれもまた開陳しながら、縦横無尽に人が往来する場を求める旅、ということになりますかな。(う、恥ずかしい)

 今年は旅にでかけることができそうなのです。今回は、劇場用のテントをもたず、道具や機材をおもいっきり少なくして、身軽でこまわりの効く旅を考えています。ぜひとも初めての土地にたくさん行ってみたいな、と思ってます。 れんこんのホストのある八王子でもできることならやってみたい。そうすれば高校生の人たちとかと出会えるかも。はたくんも一緒に旅に行くという話もあって、うーん、夢がひろがるなー。
 この放射性れんこんを読んでいてくれるあなたのところにもうかがいたい! 声をかけてください。

 それでは次は、打ち上げもしくは打合せでお目にかかりましょう。
 え、どういう芝居なのかって?
 それは見てのお楽しみ、って言ったでしょう。

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フィリピン旅行記

 [KJ]

1.前口上

 こんにちは、KJです。去年の12月にれんこんメンバーのもやいとフィリピンに行ってきました。それで、その旅行記を現在れんこんネットに連載中なのですが(free.touge BASENOTE 84)、嬉しいことにそれなりの反響があり、「放射性れんこん」にも載せろ、ということですので、その一部を転載します。(一部書き下ろし(^^)です)
 れんこんネットにアクセス可能な方は、ぜひ、本編の連載の方も読んで下さい。また、並行してもやいも旅行記を書き始めていますので、あわせて読んでいただけると、ステレオ的で面白いかもしれません。
 旅行記の方は、二人とも完結したら編集して、パンフレットのようなものにしてみたいと思っています。それが出来たら、また「放射性れんこん」で宣伝させてもらうと思います。多くの人に読んでいただきたいので、そのときはよろしくお願いします。

2.旅行の概要

 今回の旅行はもやいの提案によるものです。もやいは、茨城県で外国人出稼ぎ労働者に連帯するグループに属しており、その活動の中で知り合ったフィリピンの社会運動団体 YCW (Young Christian Workers) のつてで、フィリピンを案内して貰おうと画策したわけです。YCW は親切にも、我々のスケジュールをいろいろアレンジしてくれて、我々はフィリピン滞在中、様々なフィリピン社会の側面に触れることができました。(ちょっとハードだったけどね(^^;))
 KJに関して言えば、マニラに到着日・帰国日含め5日間、ネグロス島に3日間滞在しました。もやいはさらにマニラ近辺に1週間ほど長く滞在しました。
 マニラでは、YCW のオフィスに投宿しながら、いくつかの政治・社会運動団体を訪問したほか、スモーキーマウンテンという場所に行ってきました。ネグロスでは、地元の労働組合の研修センターみたいなところを宿舎にして、砂糖精製工場でのピケッティング闘争、島民による平和と人権を求めるデモへの参加、自立農業トレーニングの団体や教育団体への訪問、留置場での政治犯との面会をしてきました。
 詳しい報告は、すべてれんこんネットのボード上で網羅するつもりです。

3.マニラ

 マニラの印象について、旅行記から転載します。

 マニラでもっとも印象的なのは道路の様子である。まず目につくのが無数のジプニーである。マニラの道路はけたたましいラジオとクラクションを鳴らし、真っ黒な排気を噴出して走るジプニー達に占領されているといっても過言ではない。
 ジプニーとはジープの後部を、十数人の人が向かい合って座るようにした乗合自動車である。ジプニーこそは市民の足であり、マニラ生活はジプニーなしでは全く機能しないといってよい。
 ジプニーは元来米軍払い下げのジープを改造したものであったらしいが、現在では、工場で最初からジプニー専用の車体を製造しているということである。
 ドライバー達はジプニーを好き好きに飾りたてている。日本のかつてのトラック野郎のようなノリを想像していただけるとよい。ただし、ジプニーには大抵、キリストやマリアのイコンと、"God loves us!" みたいな呪文が書かれている。
 ジプニーにはいろいろな路線があるが、基本的にどこで乗っても降りても良い。定員は12人位だが、始発の場合、それを数人上回る乗客を載せないと発車しない。ジプニーにのる客は、ぎゅう詰めにされて座ることは覚悟しなければならない。満員の場合は、後部に客がぶら下がることもある。
 料金は、市内の基本料金が1ペソ50センタボ。(100センタボは1ペソ)つまり7〜8円である。客は乗り込むとその額をドライバーか、助手がいる場合は助手に渡す。中距離以上を走るジプニーだと料金は高くなるが、それでも数ペソである。
 客は降りたい場所にくると「パラ!(止まれ)」と叫んだり、天井を叩いたりして降りる意志を示す。
 ジプニーの運転は(タクシーでもそうだが)、まったくもってアクロバティックである。車線はあってなきがことしなので、とにかくクラクションを鳴らしまくって自分の位置を確保する。何度も他の車と接触するかというシーンがあったが、結局接触するようなことはなかった。こういう体験をしてはじめて、なぜジプニーには必ず宗教的な呪文が書いてあるかわかったような気がした。こうしてみると日本のドライバーはおとなしいが、ヘタだ。マニラでは渋滞はあるが、発車するときの立ち上がりが早いためイライラすることは少ない。
 一台でも、エンジン音と排気音とクラクションとFMラジオがけたたましいジプニーが無数に走っているのだから、日中のマニラ市街のうるささはものすごいものがある。
 それと空気の汚染。ジプニーに乗って日中マニラ内を移動すると、鼻の穴が真っ黒になる。排気のせいで、マニラは常時すこし霞がかかったような状態になっている。
 このジプニーは地理や風景をかなり把握していないとのれない。滞在中は、ジプニーをよく利用したが、どの車にのるか等、YCW のメンバーにたよりっぱなしであった。

 他の公共交通機関としては、高架鉄道、路線バス、タクシー、トライシクル、馬車等がある。トライシクルはバイクや自転車にサイドカーをつけたもので、2人乗りが普通である。自転車のトライシクルは、少年労働のひとつの手段となっている。

 ジプニー以外の、乗用車やトラックはまず95%以上が日本車である。ニッサンサニーや、ランサーが多かった。オンボロ中古ももちろん多いが、新車と思われる車も目につく。
 マニラの幹線道路で目を引くのは、車の間をすりぬけて走り回るもの売り達の姿である。売るものはおもにタバコで、タクシーやジプニーのドライバー目当てであるが、観光客むけに菓子等を売る者も多い。多くは少年達である。また、もっと小さな子供達が、止まったジプニーの後部に来て、鈴を鳴らして歌う。これはお金をねだっているのである。こうしたストリートチルドレンはどこに行っても多量にいる。
 あと、もの乞いも非常に多い。これは北部ルソンやミンダナオの山岳民族出身者がほとんどのようである。

 マニラには物資が溢れているように見える。食品、家電製品、衣料、貴金属、コンピュータにいたるまで何でも売られている。値段も当然日本に比べれば安い。(だいたい、物価は日本の1/6から1/7といったところだ。)それでも、そういった品物は大部分の住民にとっては到底手が出ないものである。
 マニラの歩道という歩道にはビッシリと露店が並んでいる。マニラではものを買う人より売る人の方が多いのではないかとすら感じた。

 マニラにはファーストフードの店がやたらとある。そこで「ラーメン」を食べてみたが、なかなか美味であった。ただ、そういう店はかえって割高である。あと、マニラには書店が多い。東京よりも多いのではないかと感じた。

 街中どこに行っても、タガログ映画の宣伝の看板がめだつ。映画はマニラ市民の最大の楽しみのひとつのようである。見たところ、アクションヒーローもの、恋愛ものが多いようである。また、香港映画もよく上映されているようだ。

 大気汚染、水質汚染、騒音公害、交通問題、ゴミ問題、そして過密。どれをとってもマニラは極端である。問題ははっきりしているが、解決策は今の所ない。
 マニラは「活気に溢れた」街である。しかしそれは、この``ひどい''状況の中で、人々が何とか生きていくために必死にかけずり回って働いている、そこから出てくる活気であると思う。

4.スモーキーマウンテン

 12月8日(滞在3日目)の午後、我々2人はスモーキーマウンテンという場所に連れていってもらった。スモーキーマウンテンとは、マニラ市北西部トンド地区のマニラ港に突きだしたゴミによる埋立地である。20年程前からこの地にはマニラ中のゴミが搬入され、それらがうずたかく積まれ自然発火し、常にゴミのくすぶる煙を排出し続けているところからこの名でよばれるようになったという。この地にはゴミの中から再使用できそうなものを回収して売る業者たちが群れ集まってアジア最大とも言われるスラムを形成し、現在2万人以上の人がゴミの上にバラック生活を営んでいるとされる。
 アキノ政権は、「都市環境美化」の名のもとにこのスモーキーマウンテンを「撤去」する政策を明らかにした。しかし、この地を生活の根拠にする民衆の抵抗の前に、この計画は実現を阻止されている。

 YCW のメンバーから、事前に注意を受ける。スモーキーマウンテンは治安が極端に悪いため、金目のものをできるだけ持っていかないことなど。ネディの他に、このときだけYCW メトロマニラ地区委員のパブロ氏という人物が我々の案内にたってくれた。彼の先導で、ダウンタウンからジプニーを乗り継いでスモーキーマウンテンに向かう。
途中、チャイナタウンの入り口で下車し、街中を歩く。「ここは、スリが非常に多いので気をつけろ」ということだった。確かに、チャイナタウンの周辺は、マニラ市街中心部とはまた違った活気に溢れている。道いっぱいに展開される露店の間を、人波にぶつかりながら歩く。これは危ないはずだ。
 チャイナタウンを通り抜けたところで、スモーキーマウンテンの方面に行くジプニーを探す。ジプニーは混んでいて、私とパブロは入り口にぶら下がって行く羽目になる。パブロは涼しい顔をしているが、私はしがみつくのだけで結構大変であった。顔の部分だけ、ジプニーの屋根の上に突き出すような状態になっている。加速や減速、曲がり角、登り下りなど変な加速度が着く状態のときが辛いのである。でも仕方がないから、パブロには「大丈夫大丈夫」と話しながらひたすら耐えた。
 30分程走ったか、あたりは相当うらぶれた感じになっている。マニラ港の近くである。「スモーキー・マウンテンはどっちだ」とパブロが通行人に聞いている。舗装された道からはずれるようにそこに行く道があり、橋を渡ったところがスモーキーマウンテン地区の入り口であった。
 そこにスモーキーマウンテン地区を統括する自治組織(バランガイと呼ばれる。フィリピン全国で、地方行政の末端を担う組織)の事務所があり、パブロが来訪の意を告げると、「通行して良い」ということらしかった。
 地区を貫いて走るトラック道路があり、途切れることなくゴミ搬入車の通行がある
すでにあたりにはヘドロ臭と生ゴミ臭の入り交じったような異臭が強烈に漂い、道の両わきにはほったて小屋の露店が並び食料品等を売っているが、肉にも魚にも無数の蝿がたかっている。すでに、足元はゴミでできた大地になっていた。
 眼前にはこの地の名前を示すようにゴミの峰がそびえたっている。これは確かにhillではなくてmountainである。山は白っぽく、全体的に煙のためぼんやり霞んで見える。山頂付近にはいまでもダンプがゴミを積み上げ、コマツ製のブルドーザーが走り回る。自然発火の炎もあちこちに見られる。
 麓から中腹にいたるまで、数多くの労働者がゴミをあさっている。ゴミの中から、ビン、木材その他を拾い出し、業者に持ち込むのである。そうやって百円から数百円相当の日収を得て、彼らはその日その日を生活している。もちろんその中には多くの少年労働者も含まれている。
 いままでにこにこしていたパブロが、少し険しい顔つきになって「どうだい、これがフィリピンの実状なのさ」とポツリと言ったのが印象的である。

 我々が行ったときは天気も比較的良く、「仕事日和」で、みんな我々などには目もくれず一心不乱に働いていた。これは、私の勝手な先入観とは大きな違いであった。
私は、そのような極限的な環境の中では、重いあきらめのようなムードが支配しているのではないかと思っていたのである。
 もちろん、雨期の際は、異臭が一層ひどくなり、とてもすさまじい状態になるそうだ。
 そんな状態を見ながらしばらく居ると、あたりの空気のため目が痛くなってきた。
パブロに、「こんな状態で伝染病とかは流行らないのか」と聞いたら、「伝染病は幾つもあるが、みんな発病しないんだ」と言う。ほんとかどうかは知らないが。

 中央のトラック道から、スラムのバラックの間の小道に入って歩く。どの家も今にも倒れそうなくらい粗末そのものである。そんな中でも、クリスマスの飾り付けは忘れていない。そして小さな子供達が非常に多く、無邪気に遊んでいたり、水浴びをしたりしているのが印象的だった。また、辻辻に選挙ポスターが多く貼られている。たぶんバランガイの選挙のためと思われる。
 マニラ港を一望できる場所まで降りてきて、振り返ってスラムを一望する。本当に巨大なスラムである。ゴミの山全体にこびりつくように建っている無数のほったて小屋の光景は忘れられない。ここに限らず、マニラには主要な道路ぎわや川に沿って非常に多くのバラック生活者が目につく。
 正直言って、我々の目からみればひどい生活である。しかし、彼らにとっては、その生活を守ることが死活を賭けた闘いなのである。

5.ネグロス

 この節は書き下ろしです。今後、詳細部分はれんこんネットのボード上に書いて行きます。
 ネグロスはフィリピン中部ビザヤ諸島の西の端にある大きな島である。中央部に火山性山地があり、西と東に大きく分けられる。今回訪れたのは西ネグロスの首都バコロドであった。
 ネグロスは砂糖の島として知られている。この島の平地はほとんどがハシェンダと呼ばれる、砂糖黍畑であり、少数の大地主によって経営されている。
 1985年以来、世界の砂糖相場は暴落しており、ネグロスの人口の大部分を占める砂糖関係の労働者(農繁期は砂糖黍畑で働き、それ以外は精製工場に勤める)は困窮を極めている。山間部を中心に共産ゲリラ新人民軍の活動がなお活発であり、労働運動へのテロリズムを伴った弾圧も激しく、多くの政治犯が生み出されている。

 バコロドから北に数十キロ離れたヴィクトリアスにネグロス最大の砂糖工場があるが、我々が訪れたとき、労働運動のリーダーへの不当解雇への抗議として、砂糖工場への砂糖黍のトラック搬入を阻止するピケッティング闘争の真っ最中であった。冬とはいえ、日中は炎天下の工場入り口前に、労働者とその家族が座り込んでピケラインを張っている。水や食料はバコロドからトラックで運んでくるらしい。日射病で倒れる人が多いらしく救急車もしょっちゅう来ている。我々が行ったときは、平和人権デーということで集会のようになっていたが、その最中にも経営幹部や市の役人とかと小競り合いがあり緊張した雰囲気であった。

 ネグロスの民衆を貧困と飢えから解放するには、土地改革を行って大地主を根絶し、砂糖黍モノカルチャーをやめて食料が自給できる農業技術を導入・開発するしかない。JCNC(日本ネグロスキャンペーン委員会)などのNGOの協力で、自立した農業技術のトレーニングセンターがバコロド近郊のツブランに作られており、実験農場や有機脳法の研究開発が地元民衆の手によって行われている。また、日本人の修道女であるシスター富山によって設立された奨学基金団体 Futabakai Foundation は労働組合と緊密に連携しながら地道な就学運動を長期間継続している。ネグロスでの日本に対する草の根的な民間協力への期待は大きいものがある。

 バコロドでは拘留中の政治犯約30人と同時に面会する幸運に恵まれた。彼らは殺人・傷害などの一般犯罪名目で逮捕・起訴されているという。フィリピンでも階級対立が特に激しい場所では、資本家の私兵がたくさんおり、労働組合活動家へのテロが頻繁に起こっているが、その攻防の過程で労働者階級側が逆に殺人や傷害をでっち上げられる仕組みになっている。こういうテロはアキノ政権以来の(共産主義勢力に対する)「全面戦争政策」の元で事実上容認されている。

6.終わりに

 以上、とりとめのないものになってしまいましたが、とりあえずの誌上報告とさせていただきます。
 多くの日本人は、アキノ政権成立以降のフィリピンの実情についてほとんど知らないと思います。しかし、以上述べたように、いまだにフィリピンでは苛酷な状況のもとで生存のために平和と人権を求める圧倒的多数の民衆による闘いがあることを我々は肝に命じなければならないと思います。そして、多くのフィリピン人は日本の経済的・軍事的動静に極めて注目しており、またそのかなりの部分が残念ながら疑念を含んだ冷ややかなものであるということもつけ加えておかなければなりません。

 私にできることは何か、を考え、少しずつでも実践を始め、そしてまたフィリピンに行きたいと思っています。

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玉姫公園での年越し
--- 92-93 山谷越年闘争---

 [カタリ]

■イントロ/5W1H
 現在はもう行政上の地名としては存在しないことになっている。荒川区南千住、台東区清川、日本堤に渡って広がっている。日比谷線・JR南千住駅が近い。約200軒のドヤ(簡易宿泊所)、日雇い労働者が約7000人いるということになっている。ここに住んでいる人たちは、山谷のことを「ヤマ」と呼ぶことが多い。
 ふだん、メインストリートの「山谷通り」には朝の5:00くらいからものすごい数の男たちが集まってくる。片側2車線の結構太い通りなのだが、あまりにも人が多いので車はノロノロ走っている。
 なんでそんな朝早くに....と思う。でも、ここでなんとかその日の仕事を見つけ、8時始業の工事現場(それもどこになるのか分からない)に間に合うためには、逆算するとそのくらいの時間になるというわけだ。
 そして、「山谷通り」を基準とした位置によって職種が決まってくる。
土工 いわゆる土方。全般をやる。(穴ほり、かたづけ、コンクリ打ちなど)
トビ 足場を組んだりばらしたりとか鉄骨を組んだりとかの、高所で作業する人
鉄筋 鉄筋コンクリートの鉄筋を配置したりからめていったりする人
 また、仕事がその日限りであれば「現金仕事」、10日なり20日なり現場の宿舎(飯場)に泊り込みでの仕事を「出張」と言う。
 さて7:00くらいになってくると、仕事に行く人はもうほぼ出発してしまっているのでそこにいる人たちは「アブレ」(失業)ということになる。職安に「白手帳」を出しに行く人もいる。この「白手帳」というのは、毎月コンスタントに14日は仕事に行けないと失業保険(アブレ金)がもらえないようになっている。要は、この14という数字は勤労意欲やら労働能力やらをさし示している、ということなのだ。
 山谷にいる人たちを指して、酒ばっか飲んでいるだの汚いだの働かないだのという人がいる。どうでもいいことだ。酒が好きな人は多い。
こんな書き方がそぐわないほど飲む人もいる。汚い人もいる。働かない人もいる。それだけのことだ。でも働けなくなってゆく人が多いこと、誰も知らないところで死んでいく人がむちゃくちゃ多いことは物影に隠されている。行路病死(旅先で病死)、という形で処理される。

■「越年・越冬闘争」って
 だいたい毎年のスローガンは「黙って野垂れ死ぬな!生きて奴らにやりかえせ!」だ。
 行政は、12月からの越冬対策の開始に備えて、施設・病院から収容・入院者を追い出し、越冬期に入ると同時にいわゆる越冬対策や狩り込みによって収容する。次の年もまた同じサイクルが繰り返される。その過程で、働けそうな労働者は収容する。その収容所は、大井埠頭に年越しの期間だけ設置されるので「大井収容所」とか呼ばれる。tmpに*.lzhの内容を展開しといてから必要なファイルだけ もいっかい圧縮する作業に似ているかもしれない。そう、*.lzhにしておけば管理しやすい、っていうもくろみも当然ある。
 さてこのtmpは野ざらしなのでそれに対抗する取り組みというのはいきおい「防戦」のカッコにならざるをえない。「黙って野垂れ死ぬな!」情けないスローガンなのかもね。まあ、それでも「後退できない線」として「越年・越冬闘争」はある。んで、冬は姿勢を低くしてなんとかこらえて、春先以降(組織労働者じゃないけど春闘もある。1日のデズラ(賃金)を上げろ、という賃上げ要求である。)への闘いにつなげてゆく、ということだ。

■どんな人たちがどんなことを
 12/28には役所などみんな閉まる。トラック数台にナベカマ野菜肉米タキギ小田和正松任谷正隆パイプなどを満載して玉姫公園に乗りつける。全部のるわけではないから歩く人たちも多い。ただ歩くのもなんなので「ワッショイワッショイ」と掛け声をかけながら歩く。....とか言っても山谷労働者福祉会館からそんなに距離があるわけではない。「山谷通り」を渡って反対側にゆくだけです。で、公園につくと機動隊が阻止線を張っている。とーせんぼ。あっちとしては、どんな人が何を持って公園に入るのかチェックしたいので触りまくってくる。まあ、愛撫とはいいがたいね。
 ....そんなこんながあって公園に突入する。炊事班(後述の★参照)は晩飯の用意があるのでさっそくかまどを作り始める。医療班(★参照)の人たちは医療用テントをパイプで組み立て始める。特定の班に所属していない人たち(「ブラブラ班」と自称する人もいる)も電気や水などを調達するためになにかと忙しい。そんなこんなで越年闘争の初日はなんかわけわからず忙しい。
 以降は1/4まで、だいたい班ごとの行動になってゆく。ちょろっと説明する。

★炊事班
 炊きだしをやる。少ない時で200食、多い時で450食からの食事をみんなに提供するのでまあそれなりの忙しさである。包丁を使う仕事は卓球台の上にコンパネ(ベニヤ板のぶあついもの)を載せてその上でやる。たき火ですすけた手で芋の皮をむいたりすると手がきれいになり芋がなんとなく灰色っぽくなることもある。まあ、どうせ煮るのであんまし関係ない。(^^;)。カマドを10門配置。これが一斉に火を吹き煙を上げているさまをみていると、船の機関室とかこんな感じなのかもな〜とかわけのわからんことを考えないでもない。んで食事の時間(朝7時、昼12時、夜6時)。どどっと列ができてあっというまになくなる。食器は、メシを食べた人が自分で洗う。大晦日は年越しソバ、元旦はオセチも作る。モチも食べる。げーっぷ。

★医療班
 各班の仕事に軽重があるわけでもないのだが、こと「野垂れ死に」ということに関してはこの班が越年闘争の核心と言っても過言ではないかもしれない。1時間おきに(凍死する可能性が高くなる明け方は30分おきに)公園の中や近くの神社で寝ている人の様子にチェックを入れてまわるのが主要な仕事。体が衰弱しきっている人を、救急車を呼んで病院にねじこんだりすることもある。山谷からきた、というだけで救急の窓口でテキトーな薬を渡して追い返したり、下手すると救急車に乗せなかったりとかいうこともママあるのでこの班の人が無理やり救急車に同乗してゆく。
 軽度のケガなどは、用意してある薬で直す。血圧や体温をはかる機械も置いてあるので計っている人もいる。

★人パト班
 「人民パトロール」という。人民がやるからって、パトロールしていい、ってもんでもないかもしれない。さておき、この班は山谷周辺や、ターミナル(新宿とか池袋とか高田馬場など)に、リヤカーや車に毛布やオジヤを積載して徘徊して、アオカン(野宿)している人たちに配ってまわる。そういう意味でパトロール。この過程で衰弱してたり大ケガしてる人を見つけた時には先述の医療班同様、救急車を呼び添乗してゆくこともある。

★文化・教宣班
 毎日、公園にいる人たちに向けていろんな情報(メシが何食出た、とか、収容所の受け付けはいつまでだ、とか)を載せたビラを作って配付する。A-Musikに、玉姫公園に来て演奏やってくれんかー、とかナシをつけたりするのもここの班の仕事である。

★防衛班
 さて、様々な公園内での活動は、法律的には玉姫公園を「不法占拠」した形で行われる。最近はあまりないが、以前はヤクザやら警察(機動隊)やらが踏み込んできて好き勝手やろうとしたこともあった。また、山谷のドキュメンタリー映画を撮影していた佐藤満夫監督(1985年)や組合(山谷争議団)の活動家・山岡強一氏(1986年)がヤクザに暗殺されている、という歴史があるので、いきおいヤクザと警察に関しては神経質にならざるを得ない。公園の各入口でちょっといかつい感じの人が見張りをしている。

 ....とちょっと飛ばしながら説明した。こんな感じで24時間体制で越年闘争はおこなわれる。越冬、というのはだいたい11月から3月くらいまでの、寒くてやばい時期の、人パトを中心とした取り組みのことをさす。越年闘争はとりあえずおわったが、越冬はまだまだつづく。

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全障連大会に参加して

 [涼]

全障連大会とは
全障連大会とは、全国障害者開放運動連絡会が年に1度行う全国交流大会の事です。それだけでは何の事か良く分からないでしょうが、障がい者とそれに関係する人が全国から集まって色々な問題について話をする場です。もっとも、私も良く分かっていないのですが。

参加のきっかけ
たまたま始めた障がい者介助でカルチャーショックを受けた私は、れんこんネットで話をすることにしました。その辺の話は、前号でKJさんが書かれています。そこでの話で、障がい者関係の大きな集まりがあると聞きました。障がい者関係について良く分からない私は、とりあえず参加してみることにしたのです。新しい事に足を踏み入れるの結構勇気みたいなのが必要ですが、自分の知らない事を知っていく事に対して興味がありました。難しい問題は分かりませんが、今まで自分が知らずに過ごしていた事がこんなにもあるのかと、考えを新たにしました。もっとも、すぐに今までの考えを変える事はできず、少なくとも自分に障がい者に対する偏見や差別意識がある事を認める事から始まりました。そうした介助での疑問等が、多くの人と接する事で何か解決出来ないかと思ったのです。場所的に近いというのも、参加し易かった要因です。

大会概要
実際に行われたのは11月22日と23日の2日間で、最初の日に各分科会に別れてに話がありました。場所は、立川と国立で幾つかの会場に別れて分科会行いました。そして、夜は小人数での交流会がありました。23日は、各分科会の話し合い結果等を報告する全体会と市民交流イベントがありました。残念ながら私は1日目のみの参加でした。参加費が3000円かかりましたが、立派な資料を貰えるので結構赤字で大変でしょう。なお、分科会は、以下のものがありました。
    1.   交通・移動・まちづくり
    2.   生活
         (1)介護保障のありかた
         (2)生活の中での差別とどう向き合うか
    3.   教育・保育
    4.   労働
    5.   作業所
    6.   施設
    7.   医療
    8.   障害者と冤罪
    9.   「精神病」者の権利獲得と保安処分の闘い
    10.   知的障害のなかま
    11.   理論講座

私の参加した分科会
私は、この中の「2.生活(2)生活の中の差別とどう向き合うか」に参加しました。そこには、車椅子の人も多くて10名以上はいました。全員で60名程度でしょうか。それでもほぼ満員状態で、発言するのをためらいながら(恥じらいながら?)も生の声を聞かせてくれました。決定的な「これだ」と言える答えは存在しません。状況が様々なのはありますが、与えられるものでは無くて勝ち取るものだとも言えるかも知れません。むしろ「どうしたいのか」という部分もあるでしょう。しかし、「とりあえず自立して社会の中で生活する」レベルに達していない(出来ない)で居る人も多いのが現状ですから、そちらの方が全体としての取り組みをしやすいのでしょう。
しかし、とにかく「闘争」や「糾弾」という言葉等が目立ち、違和感はありました。しかし、彼・彼女等がおかれている現状はそれほどに厳しい事も反映しているのでしょう。それは、生の声を聞いて感じました。一番欲しがっているのは、一緒に闘ってくれる健常者の仲間の様です。しかし、まずは知って欲しい、自分の気持ちを伝えたいという事もあります。本来は嫌な「同情」の様なものでも、きっかけと出来るならそうしたものでも利用していくという人もいました。そうした意味でも、対話の重要性を感じました。まだまだ私は知らない事が多いですが、必ずしも全ての障がい者とうちとける自信はありません。それは、誰であってもそうです。「障がい者だから」と言う事で全てその考えに同調は出来ないのです。これは私のわがままかも知れませんし、あまりにも強い健常者批判に対する一種の拒絶反応なのかも知れません。これも、差別なのでしょうか?

夜の交流会
ほぼ昼の分科会と近いテーマでの話し合いをする場です。しかし、より小さな集まりでより具体的内容となっています。個人的な話とかも出来ます。テーマは以下の通り。

	1.	「精神病」者の交流会
	2.	精神医療従事者、地域で支える人たちの交流会
	3.	視覚障がい者の交流会
	4.	青山闘争交流会
	5.	教育分科会の交流会
	6.	在日外国人障がい者
	7.	施設入居者自治会の交流会

私は、この中の2に参加しました。分科会とも関係あるものですし、実際に介助したのも「精神病」者でしたから。色々と個人的に考えることもあって、他の人がどう考えて居るのかとかざっくばらんな意見を聞きたかったからです。実際、それぞれの方がいろいろな関り合いをしていて、色々と生の声を聞けたのは大変良かったです。それでも、見知らぬ同士ですからそれなりに始めは遠慮がちと言うか、発言は少なかったです。最後の方で話が盛り上がってきたところで時間切れというのは、残念な気がしました。
バリバリの活動家の人から、それこそ初めての参加の人もいて、ここで自分の抱える問題のヒントを少しでも得たいとの思いから参加している感じがひしひしと感じられました。実際の精神病院医師も参加しており、期せずして(かどうか分かりませんが)広い範囲の人と交流出来た事は大変参考になりました。

大会についての感想
残念なのは、参加したい分科会が複数あって、それらに全て参加は出来ない事でしょう。しかたが無い事ですが。それから、長年参加している人などが多いのか、ロビーとかでも色々と話がされていたのが印象的です。そうした意味でも、「交流」なんだなと実感しました。私自身も、友人に声を掛けて参加しましたし、多くの人にこうした問題等を知ってもらい、参加して欲しいと思います。そして、私は来年も参加したいと思いました。何処でやるのか知りませんけど。また、大きな大会だけでなく、各地での小さな集まりに参加して、より突っ込んだ話もしてみたいものです。

終わってから
思うのは、全くの平等(悪い意味で)というのはおかしいのではないかと。障害の部分を考慮した上で、それ以外は平等という事です。しかし、これはこれで危険な要素も含んでいるでしょう。障害の部分をどう考慮するかということです。私の中では自己完結している考え方なのですが、これをどう伝えるかは難しいです。簡単な話として、機能的に足りない部分は助け合うという事でしょうか。それは、単に病気の人とかに対するのと同じ程度の意味合いです。
難しいのは、コミュニケーションを取れない、あるいは困難な人でしょう。相互理解にはコミュニケーションは不可欠です。しかし、発声が困難で文字を書く事とかも不自由だとそれを行う事が大変難しいです。そして、例えそれが出来てもとても疲れる行為な事も多い様です。その辺の捉え方はこれからの私の課題です。しかし、それ以外考えていかなければならない事が山積していますので、とりあえずは保留としています。まずは、多くの事実を知る事と対話を増やす事でしょう。

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原発用語の基礎知識
その3:原発ってクリーン?

 [McOtto]

 バブルがはじけてめっきり懐が寒い今日この頃、皆様如何お過ごしでしょうか?(意味不明) 不況で収益激減、おかげでボーナスも現物支給、なしって会社もあるってえのに東芝じゃ、原発で儲かったおかげで減収は他社に比べて小さかったそうで、原発関連の仕事をしてる人達なんかボーナスいっぱいでウハウハだったってさ。ん〜も〜これだから原発は止められませんわ、うわっはっは、・・・なんてふざけた話はこれくらいにして、そろそろ真面目に書かないと怒られてしまう(^_^;)

 原発を反対している人は誰もが知っているのに、そうでない人はほとんど知らない、そんな話は沢山ほどありますが、その中でも筆頭いえば「原発はクリーンである」と勘違いしていることです。本当は全然クリーンじゃないんだけどね。私も知人達と話してみると、原発ってなんか恐い、って思っている人すらそう思っているんですよ。うーん、そんな勘違いは捨てて欲しいなぁ、政治家に不信を抱くのに、政府や大企業の言ってることには不信を抱かないの?、という訳で今回のテーマは「原発は本当にクリーンか?」ってことでいってみましょ!

○原発は地球にやさしい?

 原発は二酸化炭素を出さないから地球の温暖化を防ぎます、とかなんとか言われていますよね。あれって全くのウソ。たしかに発電中には二酸化炭素はほとんど出さないのですが、ウランの採掘や精製するために使われる沢山の石油などによってたーっくさんの二酸化炭素が発生します。ですから発電するまでに発生する量は火力発電なんかとほとんど同じなんだそうです。
 ちなみに電気自動車の出す二酸化炭素、もちろん発電時にでるものですが、これってガソリン自動車とほとんど同じなんです。ですから電気自動車だからといって安心して乗り回すって間違ってるんじゃない?おっと閑話休題。

 温暖化の原因というのなら、原発の出す熱を無視しちゃいけません。原発は他の発電方式に比べて発生する熱量が格段に多いのです。核分裂では1億度近い熱を出すことができますが、こんな高温では人殺しぐらいにしか使えないのでそれを300度程度の熱湯にしてタービンを回しているのです。実際には発電に使用されるのは核分裂で発生する熱の30%だけで、残りの70%を大量の温排水として海に捨てられちゃいます。つまりは海を温めているのだから原発周辺の海は異常な生態系になってしまいます。
 もちろん温排水には「微量」ながら放射性物質も含まれているんですね。んー、ただ捨てるのももったいないから温泉にでも利用してみますか。ラドン温泉をありがたがって入る人がいるんだから、温排水の効能はさぞや・・・うぅ、ちょっとブラック(^_^;)

○原発は人にやさしい??

 「原発って放射能が絶対に洩れないように作ってあるんでしょ? なら大丈夫じゃないの? 今までの事故だって人体には影響がないって言ってるじゃん」。いえいえ、そんなことはありません。正常に運転しているときにも放射性物質は洩れています。ただ、大気中にばらまいたり大量の海水で希釈して海に流しているので濃度は低くなってはいますが。でも濃度が低ければ安心というものじゃないのね、放射線というものは。低ければ大丈夫なのではなく、異常が出る確率が低くなるだけ。

 ところで、数行前にわざわざカッコ付きで「微量」だって書いたのはただのイヤミです(笑) 原発から洩れているのは微量だといわれてはいますが、実際には大量にばらまかれているんですね。110万KW沸騰水型原子炉からは年間に1500兆ベクレル(4万キュリー)もの放射性希ガスが放出されています。放射性希ガスは不活性なので人体に蓄積することはほとんどないと言われていますが、原発付近で実験したところ植物の突然変異が通常より多いことが確認されていますので、人体に影響がないなんて誰が言えるのですか?

 「外部には洩れてるみたいだけど、中はどうなんだろう?」はいはい、原発内部はどうでしょう。完全に機械化されてほとんど無人、遠隔操作のロボットが作業している・・・な〜んてそんなの全くのウソ。本当は内部にたーっくさんの人がいて、中で肉体労働しています。掃除とか配管工事とかいろいろ。
 原発内での掃除、何をやっているかと言えば、みんなで中を雑巾がけしているんです。なんで雑巾かって? 洩れてる放射性物質を拭き取っているんですよ。危険なのでマスクを着けてビニールのカッパみたいなものを着て、放射線の中を床にはいつくばって働いています。危険なので一定量の放射線を浴びたら作業を中断しなければなりませんが、それを無視しても作業しているなんて話を聞きます。そんな人達のほとんどが下請け会社の日雇いの人達で、電力会社の社員はそんなことはしません。みんなで安全なところで作業しています。社員に問題が起きたら大変じゃない、だからいつでも切捨てられる日雇い労働者。働けなくなったら「もうこなくてもいいよ」、でおしまい。

 原発ブラブラ病って御存知でしょうか? これは原発内部で清掃などの作業していた人が、後になってから体がだるくて仕事をすることができなくなって家でブラブラしているしかなくなってしまう、だからブラブラ病と呼ばれているのです。原発内で作業してから不調になったんだと訴えても電力会社はそんなことはない、なんの証拠があるんだ? とつっぱねます。自分の否を認めるわけがありません。自分の首を締めることになりますからね。医者に金を渡して検査の結果異常なしと診断書を書かせたなどというとんでもない話もあるそうなのです。もちろんこんな話、電力会社は知らぬ存ぜぬですが。

 こんな人達が沢山たくさんいます。他にもウランの採掘のために癌になってしまった人々など原発を動かすために沢山の人達が犠牲になっています。つまりは第三世界や日雇いの人々の犠牲の元に原発を運転し、電気を作っている。貴い犠牲? そんなものじゃない、ただの人殺しです。あなたはどう思いますか?

 あ、もう紙面がなくなっちゃった。それじゃまったね〜(^_^)/

参考文献:
「原発被爆日記」森江信著 講談社文庫
「これが原発だ」樋口健二著 岩波ジュニア文庫
別冊宝島「地球環境・読本」 JICC出版局
「環境百科」駿河台出版社
 この2ページじゃ物足りなかった方は読んでみて下さい。お勧めします。

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