英国日記 | | |
25th February-12th March, 2014 Birmingham & London, England | ||
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今回の旅行は、学内の研究助成費を受給した、英国バーミンガム市の郊外住宅地区に関する資料を収集することが主な目的でした。日記は直後に整理する余裕があったか否かで、記述の精粗があります。 今回の旅は、久々に全くのひとり旅です。文中にある料金のうち、宿泊費は1人で泊まる場合の金額です。この旅行では、1ポンドは190円くらいでした。 見出しに示した地名のうち、青字はその日に訪れた主な場所、緑字は宿泊地です。 | ||||||||||
■ 2014/02/25 (Tue) ひさびさの単独行 VS901便 機中 / London Heathrow Airport / Birmingham Birmingham: Britannia Hotel |
ここ数年続けてきた、バーミンガム郊外の住宅地Bournvilleの開発史に関する情報収集のために、今年も大学から研究助成を受けた。今年でひと区切りとするつもりで、2月から3月にかけて、2週間程度の単身渡航に出ることにした。 朝7時過ぎに国分寺駅から電車に乗り、御茶ノ水、錦糸町と乗り継いで、9時40分ころ成田空港に到着した。土産物を少し買い、現金を用意してから、保安検査場を通って搭乗口へ向かったのだが、保安検査に意外と時間がかかり、搭乗口で待つこともなく、久しぶりのヴァージン・アトランティックVS901便の機内に入った。機材の愛称は Maiden Tokyo だった。初めてヴァージンに乗った時のある種の感激というか、うきうきした気分からすれば、機材のエアバスも随分と使い込まれた感じになっているし、全日空とのコードシェアになっていたりと、隔世の感を覚えながらも、相も変わらずゲームをしたり、寝たりしながら機中の時間を過ごした。翼より少し後ろの右側の通路に面した内側の席だったのだが、通路を挟んで反対側(窓側)に座ったメキシコのパスポートを持った女性は、自分の隣の席にわざわざバイオリンらしきものを置いていた。最初からバイオリン用に席を買うくらいなら、アップグレードして収納も含めて余裕がある席に行きそうなものだが、ともかく、エコノミーの席で座席ひとつを占領して楽器を置いている人は間近に見たのは初めてのことだった。 現地時間の午後4時過ぎにはヒースロー空港ターミナル3に到着。入国審査、荷物受け取りを済ませて、バス・ターミナルに直行する。バーミンガム行きの往復オープン・チケットを,よく分からないまま50ポンド40ペンスで買う。5時30分出発の210番バーミンガム行きは、インド系のベテラン運転手が操るピカピカの新しい車体で、座席も3点式ベルト付きで見た目はよいが、走り出したら乗り心地は相変わらずだった。 46人乗りくらいの座席数だが、客は5人くらいしかいない。薄暮時のヒースローを出発し、程なくして眠りにつく。 午後9時近くにバーミンガムのコーチ・ステーションに到着。バーミンガムで下車したときに気づいたのだが、前の方にいた乗客は、日本人の男性と女性だった。あえて言葉はかけずにターミナルから外へ向かうと、くだんの日本人ふたりも後からついてきたが、出口で待っていたタクシーに乗り込んでいた。最近になって内装をこぎれいにしたと思しきアイリッシュ・パブの前を素通りして、もう小売りはすっかり閉まっていて、飲食店だけが営業しいるブルリングの中を抜け、ニュー・ストリートに上がり、今夜だけ泊まるブリタニア・ホテルへ向かう。雨が降った後のようで、少し路面が濡れていて、空気もひんやりとはしているが、寒かった信州や東京から来た身としては、冬というよりは春の気配を感じる。 チェックインをしようとしたら、予約が入っていないと言われる。おかしいと思ってこちらもノートを開くと、何とひと月先の3月25日を予約していた。曜日が同じなので間違いを見落としていたのだ。結局、部屋はあったので眺望のないシングルの部屋に34ポンドで泊まることになった。さほど空腹感を感じなかったので、食事は手持ちの菓子類で済ますことにして外出はしなかった。テレビを点け、BBC2で第一次世界大戦のドキュメンタリー番組をやっているのをぼんやり眺めながら、眠りについた。 | |||||||||
■ 2014/02/26 (Wed) さっそくボーンヴィルでS氏と再会 Birmingham Birmingham: Awentsbury Hotel |
時差ぼけなので、深夜の2時過ぎに目が覚め、トイレに立ってから一度ベッドに戻ったが、結局そのまま起きている気になる。この宿では、部屋ではネットが使えないので、少し休んでから深夜2時過ぎにロビーへ下りて行き、しばらくネットにつなぎ続ける。以前に泊まったときに荷物をコーチ・ターミナルから運んでくれた、喋り方にちょっと特徴がある男性が夜勤の当番で、ロビー辺りを掃除しに来た。ダラダラと仕事と遊びでネットにつなぎ続けているうちに、すっかり夜が明け、チェックアウトする人たちが下りてくるようになった。8時前に部屋に戻り、身繕いをして、ブルリング・マーケットのカフェ・ネロに朝食を食ベに行く。フィッシュ&チップスとどちらにするか少し迷ったが、ブレックファストを選ぶ。£5.50は安くはないが、それに見合うボリュームとおいしさを感じる。 腹ごしらえができたところで宿に戻り、ロビーで少しネットにつないでから、10時20分ころに部屋に戻り、シャワーを浴びてチェックアウトの準備をする。11時にチェックアウトしてニュー・ストリートを進んでツーリスト・インフォメーションで最新のバス路線図などをもらい、大改装中のニュー・ストリートの駅ビルの中を通って、ブルリング脇のバス停にたどり着いた。1年ぶりの63番バスに乗ったのは10時半ころ。とりあえずは荷物があるので1階席に座り、バーミンガム大学南門の前で下車し、今日から滞在するアウェンツベリー・ホテルへ向かう。 ホテルにつくと。ちょうど亭主がガレージから出てきたので声をかけ、裏手の自宅部分の裏口から入り、手続きをして£380の支払いを済ませる。本当はまだチェックイン時間ではないし、部屋のベッドメイクも済んでいないということだったが、ラゲージだけを1階(日本式の2階)の5号室に入れ、すぐ下の食堂でソファに座りながらネットに接続する。小一時間ほど経ってから部屋に上がり、荷解きをして少しベッドで休む。 BVTのS氏から、午後2時ということでアポイントをもらっていたので、1時過ぎには起き上がり、1時半ころ宿を出て大学南門のバス停から、BVTの新しいオフィスがあるブリストル・ロード沿いの、ウォーリー・ヒルズの入口あたりのバス停まで移動し、BVTの新しいオフィスへ2時少し前に到着した。S氏は少し咳をしていたが、話し振りは相変わらず陽気で意気軒昂だった。いろいろ情報交換をした上で、また愛用の日本製のトヨタ車で、ご自宅のあるブリストル・ロード・サウスまで足を伸ばすサービスぶりで、ひとまわり最近の開発地を見せてくれた。そのまま4時過ぎに宿まで送ってもらい、いったん部屋に戻った。 S氏との話の中で、ノースフィールドの図書館へ出向く必要があると再確認したので、開館時間をネットでチェックすると、水曜日の今日は分館はほとんど休館日ということがわかった。中央図書館というか、昨年、開館したばかりの新図書館は、夜8時まで開いている。バスの1日券を買っていたので、5時過ぎになってから出かけることにしたのだが、ちょうど帰宅ラッシュ時でブリストル・ロードはどちら方向も大渋滞だった。バスの中で、しばらくウトウトできるほどだった。 新図書館に到着した時には、既に午後6時を回っていた。4階の郷土資料関係のコーナーへ向かい、とりあえずノースフィールド、ロングブリッジ関係の基礎資料を眺める。コピーのできるページ数が本の5%を著作権法厳守の体制なので、ふたつほどの資料から、それぞれ2ページと4ページをコピーしただけだったが、それを選ぶまでに時間がかかり、退出できたのは閉館時刻ギリギリであった。ニュー・ストリートのTESCOでベビーリーフ、ハム、チーズ、ガーリンク・ブレッド、マフィンなどを買ってから、8時50分ころにブルリングの脇から63番バスに乗った。宿に戻ったのは9時を少し回った頃で、買ってきたもので夕飯を済ませてから、眠くなったところでそのままベッドに入ってしまう。 | |||||||||
■ 2014/02/27 (Thu) ノースフィールド図書館へ Birmingham Birmingham: Awentsbury Hotel |
夜中の午前3時過ぎに目覚め、昨日しそびれていたメールのチェックをする。しばらくして、家内からスカイプが入ったので、寝ぼけ眼のまま、とりあえず部屋の電気を点け、しばらくベッドに入ったままスカイプで話す。実に便利になったものだと実感する。そのまま4時頃から7時過ぎまでウィキペディアをいじったりしてネットで遊び、8時過ぎに朝食に下りていった。外は細かい雨が降ったり、やんだりしている。出かける気が失せて、結局朝食後も遊んでしまった。気まぐれで同じ階(こちらの1階、日本式の2階)の共用バスルームのバスタブに湯を張り、じっくり浸かる。シャワーがないので少々不便だが、湯がしっかり温かいのはありがたい。 お昼をだいぶ過ぎてから、ようやく明るくなってきたところで、ボーンヴィルへ向かう。いつものようにラドルバーン・ロードを経て、エルム・ロード経由でグリーンへ向かい、いったんボーンヴィル・パークを少し進んでから、ソーン・ロードからウッドブルック・ロードに出て、猫道を通って以前のBVTの建物の裏に出た。昨日のS氏の話では、もともとは成人学校だったこの建物は、近々高齢者向けの住宅に改装されるのだという。セント・ジョージズ・コートの脇からウッドブルック・ロードを現在のBVTのオフィスまで進んだ。ここからブリストル・ロード沿いにノース・フィールドを目指す。途中で、盲学校跡をテイラー・ウィンピーが開発した一角に立ち寄り、写真を撮る。盲学校時代から残されている樹木や、石組みが残されているのが印象に残った。ロイヤル・オーソペディック病院の先、ノースフィールドの商店街の手前で、猫道を左に折れて住宅街へ入る。ヴィクトリア・コモンへ抜けられるのではないかと期待してのことだったが、少し早く曲がり過ぎたようで、セント・ジョセフ・アベニューに抜け、少し歩いてからコモンにたどり着いた。公園内の案内に従って図書案への歩道を進む。道に沿っていろいろな運動器具があるのが面白い。歩道の先見えた大きな建物が図書館かと思っていたのだが、表にあたるチャー・ロードへ出てみると、ここは電話交換局だった。図書館は、その少し坂下の並びにあった。正面は小さな家という感じだが、入ってみると奥行きがあり、地域の集会場なども2階に設けられているようだ。1階億の郷土資料をしばらく掘る。尋ねてみると、新たにカードを作れば、3週間10冊まで資料が借り出せるという。結局ここでは郷土史家が自費出版したオースチン・ヴィレッジ関係の資料など10点を借りることにした。 図書館からの帰路は、適当に見当を付けて歩き始めたのだが、(後で地図で見る限りは)バンバリー・ロードからインネージ・ロード、ヒース・ロード・サウス、歩道経由でヒースロードと進み、ウッドランズ・パーク・ロードで左折してウッドランド・パーク内を北辺に沿って進んだのだが、途中で水たまりとぬかるみになり、芝生もしっかり水を含んでぬかるみに近くなっており、這々の態でマルベリー・ロードへ抜けた。そこからヘイ・グリーン・レーンを右折、ボンヴィル・レーンで左折して、バレー・パークウェイに出た。ちょうど子どもたちの下校時刻で、デイム・キャドバリー校のあたりも、ボーンヴィル小学校のあたりも、歩道に人がたくさんいた。グリーンへ出て、ちょっと気まぐれを起こし、キャドバリー・ワールドへ行く。今日はもう閉館の時間だが、ショップはまだ開いていた。しかし、土産になりそうな目玉商品はなかったので、型くずれ品の袋だけを買うことにした。帰り道では、疲れを感じたが、早速チョコレートを開けて元気を出す。 宿に戻ったのは4時半。思いのほか疲れていてベッドの上に座り込んで、というよりへたり込んで、しばし何もできなかった。少しネットをいじり、ウィキペディアの編集をしてみるが、6時ころに手元の食材で夕食にする。ガーリックが効いたのか、少し元気を出して借りてきた本を読み始める。また、日本から抱えてきた原稿も少し手を付けた。結局、9時過ぎに灯りを消して床に就いた。 | |||||||||
■ 2014/02/28 (Fri) 原稿書きとカナル・ウォーク Birmingham Birmingham: Awentsbury Hotel |
朝2時過ぎに目が覚めてしまい、トイレに立ってから、どうしようか迷うが、靴下と下着を洗面台で洗って、ヒーターにかけて干したりする。やがて結局、ネットをいじり始め、ウィキペディアで遊んでしまう。結局、8時に朝食に下りて行くまで、ほとんど遊んでいた。その後は部屋で資料の整理と、懸案となっている原稿のうちのひとつの執筆に集中し、昼前には何とか踏ん切りをつけて原稿を送った。ノースフィールド図書館で借り出したオースチン・ヴィレッジ関係の郷土資料に複数の手稿が残されていたM氏に連絡が取れないかと考え、階下に下りて、宿の主人に相談をしたところ、自分の知り合いが知っているかもしれないから尋ねておこうと言われる。しばらく食堂でネットにつなぎながら待っていると、数年前に既に故人となっていたM氏を知っていたという女性と電話が繋がっていると、主人が携帯電話を貸してくれた。少し話をして、後で資料を宿に預けておくと言われた。ちなみに、この宿の主人も、その女性も、古いオースチン7をメインテナンスして走らせているクラブのメンバーということだった。 昼過ぎに、家内とスカイプがつなげて話をする。ただし、先方の受信環境がなかなか安定せず、途切れ途切れになった。それでも、スカイプで宿の様子を映したりしながら、先方に同席していた家内の友人ともどもスカイプでの会話を楽しんだ。 午後3時をまわり、出かけるにはだいぶ遅くなってしまった、雨が上がったのを見計らって、運河沿いの住宅地開発を見に行くことにする。いつものようにボーンヴィルへ向かうラドルバーン・ロードを経て、運河と鉄道を越える橋の手前で左折し、もともとキャドバリーの工場へ荷物を引き込む軽便鉄道の用地だった一帯を住宅地にしたラドルバーン・ファーム・ドライブの坂を下る。突き当たりで歩道を経由してスパリー・ドライブに出てからは右折し、運後沿いに進んで、スターチリーの街並を見下ろす歩道(後でグーグルマップを見たが、この区間は歩道扱いもされていなかった)に出て、ボーンヴィル・レーンに至った。ここで左折し、ボーンヴィル・レーンを進んで、スターチリー図書館(ただし金曜は閉館)や、最近保存問題で揺れている公共浴場、閉鎖されたクエーカー教会など、かつてジョージ・キャドバリーが周辺地区に寄贈した施設の状況を見る。そのままヘイゼルウェル・ストリートを左折し、バイパスとの合流点で右折してバイパス側のヘイゼルウェル・ストリートを南下する。メアリ・ヴェール・ロードで右折してボーンヴィル駅への坂を登る。既にあたりは暗くなり始めていた。ぬかるみとなっていることが予想されたので少々躊躇はしたのだが、結局、カナル・ウォークでセリー・オークまで進むことにして、歩き始めた。案の定、あちこちに水たまりやぬかるみがあり、少なからず苦労しながら進んでいくと、かつてのエリオッツ・メタルの跡地の一部が住宅地開発されたばかりの場所にたどり着いた。つい先だっての最後の原稿校正があった論文で「敷地の大部分は空き地として残されている」と書いたところの一部である。既にすっかり夜になっているが、街灯が明るいので少し写真をとれた。通りがかりの人に尋ねると、昨年完成したばかりだということだった。この新しい住宅地の中を抜け、そのままエリオッツ・ロードを経て、ブリストル・ロードへ出た。駅のパーク&ライドの入口のところで道を渡り、図書館前を通過してアルディへ行き、買い物をする。ペペローニのサラミと菓子、ベビーリーフ、粉末スープにジンジャー・ビアを買うが、支払う段になって、クレジットカードが使えないと分かり、やむなく現金で4ポンド弱の支払いを済ませた。 部屋に戻ったのは7時過ぎ。買って来た食材を加え、手持ちのもので夕食にする。久々に飲む安物のジンジャー・ビアがおいしく感じられた。しばらく資料を読み、9時過ぎに眠気が来たところで電灯を点けたまま横になり、そのまま眠った。 | |||||||||
■ 2014/03/01 (Sat) ロングブリッジまで歩く Birmingham Birmingham: Awentsbury Hotel |
電灯を消さないまま寝ていたが、午前2時前に目が覚め、トイレに立つ。そのまま、しばらくウィキペディアの作業などで遊んでから、図書館から借り出した本を読みはじめる。明け方には気まぐれでシャツを2枚洗った。今日は週末なので、朝食は8時を回ってからである。8時をだいぶ過ぎてから食堂へ下り、朝食をとる。今日は亭主自らが注文を取りにきた。食事後、また部屋に戻って作業を続け、ウィキペディアもいじる。 昨日ノースフィールドで借りた本のうち、拾い読みと抜き書きを済ませた7冊をもって、11時頃に宿を出て、写真を撮りながら歩き出す。セリーオーク図書館へ立ち寄り、ノースフィールドで借りた7冊を返却し、郷土資料のコーナー(2年前には論文作成の資料を随分漁ったところ)を見て、1冊だけ借り出す。図書館を出た後は、昨日最後に出くわして夜の写真を撮った、エリオット・ロードの先にある工場跡地の住宅地を見に行く。昨年中に完成したという話だったが、まだ結講残っている物件があるようだ。新築とはいえ、周辺相場より値段が高すぎるのかもしれない。クリーヴ・ロード、ケイティ・ロードを経てセリー・オーク十字路へ戻り、ブリストル・ロードを歩いて行く。ボーンヴィル・カレッジ跡で道路の北側へ出て、集合住宅地区を少し上がってから、ノースフィールド・マナーハウスの前に出てみた。監視カメラはあるが無人で、窓の破損状況などからすると以前よりさらに荒廃が進んでいるように見えた。ここは歩道で繋がっているとはいっても、私有地に無断立ち入りをしている状態になってしまうので長居はせず。すぐにパーシモンのが開発した一帯へ下りて行く。マナー・ファーム・パークとの境のフェンス沿いに進んで、いったんブリストル・ロードへ出て、ちょうど道の反対側にあたるテイラー・ウィンピーの開発地なども眺めながら、かつてのマナーハウス入口まで戻る。そこから、改めてノースフィールド方面へ向かい、途中の農場跡の市の施設があるところから公園内に入って、舗装された歩道を進んで公園を横切って他にの反対側のBVTのエリアに入り、コーヴデール・ロードを経てブラック・ヘインズ・ロード一帯の再開発地区へ出た。 この時点でニコンのカメラが電池切れとなり、USBの接続線を忘れてきていたのでPCからの充電もできず、ここからは止むなく古いオリンパスで写真を撮ることにする。グリーン・メドーズ・ロードの結構きつい坂を上り、2年前に資材が積み上っているところ(Google map の航空写真では当時のまま)から見ていた開発地が完成しており、既にひと通り入居済みになっていた。コーンブルック・ロードを経てシェンリー・レーンに抜けようとしたのだが、途中で道を塞ぐようにパトカーが2台とまっているのに気づいた。路上では警官が髪を若い女性ふたりと話をしており、最初は交通事故かと思ったが、近づいて行くと左手(南側)のテラスハウスの1軒の入口で別の警官が家人と強い口調で何か話している。入口のドアのガラスが割れていた。野次馬と思われても困るので、カメラも構えず足早に進んでシェンリー・レーンに抜けた。シェンリー・レーンに沿って南下し、改めて谷の反対側に出て、ホワイトヒル・レーン沿いにブリストル・ロードへ上がる。途中で、脇の袋小路にも入った。ブリストル・ロードにあがって、塀越しにシェンリー・グリーン地区を眺められる場所を探し、数カ所で眺望を捉えた。 この時点で、かなり疲労感を覚えたので、この先どこまで進むか迷う。時間を確かめると、まだ午後2時をまわって少しというところだ。とりあえず、ノースフィールドの商業地区に行き、休憩することにした。週末とあってショッピング・センターはごったがえしている。路面店もそれぞれ結講客がいる。4店舗ほどチャリティ・ショップを回って1冊だけ本を買った。また、B&Mの店でハムと食パンを買った。いったんノースフィールドの図書館へ行き、オースチン・ヴィレッジへの行き方を地図で確認する。既に3時を回っているが、図書館で少し休めたので先ほどよりは元気が出てきたので、今日中に一度行ってみることにする。いったんブリストル・ロードに出た方が分かりやすいと司書の女性が教えてくれたので、ノースフィールドの商店街まで坂を上って戻り、ブリストル・ロードを進んだ。ロングブリッジのボーンヴィル・カレッジの特徴的な建物が遠景に見える。2キロ近くは先の場所のはずだが、ブリストル・ロードが直線なのでよく見えるのだ。
新しい高齢者向けのケア付き集合住宅サクソン・コートを右手に見ながら進み、ロングブリッジ・レーンに至る。ここからはもう、ロングブリッジの再開発地区がよく見えるロングブリッジ駅がある道の北側を進み、いったん駅に入って、セリー・オークまでの料金を確認する。片道だと£2.40ということだった。これならバスの方が安いので、そのまま昨年開業したばかりのセインズリーズの方へ行く。駐車場からまわりの写真を少し撮り、集計されている水辺の歩道を通って、ブリストル・ロードへ抜ける。かつての(現在とは位置が違う)ロングブリッジ駅の駅舎は撤去されて、わずかに入口付近の床が残されているだけだった。当初はセインズベリーズに戻ってお茶でも飲もうと思っていたのだが、既に5時を回っているのと、かなり疲れていたので、そのままバスでセリー・オークまで戻ることにする。バス停も最新式で、順番にやってくるバスの番号や予定時刻がきちんと表示されている。程なくしてやってきた63番バスに乗り、2階席に上がる気力もなく1回で座り(というかへたり込んで)、セリー・オークへ戻った。大学南門で下車し、宿に戻った。 部屋に戻ったのはまだ6時前だったが、疲れ果てたという感じでとりあえず飲み物だけを飲んでぼんやりしていると、ドアがノックされた。何も考えずにドアを開けると亭主が立っていたのだが、その時はズボンも履かずトランクス姿だったことにドアを開けてから気づいたが、もう後の祭りである。亭主は例の女性から託されたというオースチン・ヴィレッジの資料を持ってきてくれたのである。お礼を言い、資料代の7ポンドを下着姿のまま支払った。これは相当に疲れていると自戒し、電気を消して横になることにする。べッドの上でまどろみながら、直線でも6キロくらいはあるロングブリッジまで行ったのだから、今日は10キロくらいは歩いたのではないか、などと思う。熟睡はできずウトウトしただけだったが、7時過ぎにまた起きて、電気を点けネットをいじりながら、手持ちの食材で夕食にする。その後は、幸いというべきか、テレビの受信状態が悪く、テレビを消して資料を読み始め、結局10時過ぎまでは起きていた。 | |||||||||
■ 2014/03/02 (Sun) 出かけない日 Birmingham Birmingham: Awentsbury Hotel |
あまり良い寝覚めではなく、ベッドの中で結構長くまどろんでいたが、朝5時過ぎころには起床して、部屋の電気を点けた。日曜なので朝食は8時以降になる。しばらく資料を読んでいたのだが、少々行き詰まって7時頃からウィキペディアをいじり始める。そのまま朝食時もいじり続け、昨日買い物をした店の記事を訳出する。外はダラダラと細かい雨が降ったりやんだりしているようで、出かける気になれない。昨日の疲れが残っているようだ。そのまま部屋で資料を読もうとするが、なかなか進まず、ついついまたウィキペディアで遊んでしまう。これではいけないと思い、11時頃から資料を再び読み始めた。午後1時半ころ、ベッドメイクが来たので、この部屋を最後にしてもらい、再度来たときに食堂へ移って、そのまましばらく食堂で作業をしていた。しばらくして、玄関の前に3人ほどの客が来て、入れずに困っているのに気づいた。外は小雨ながら雨が降っている。玄関へ行き、自分は客なのでここから入れてあげられないが、経営者の自宅になっている裏口へ回ってみたらどうかと伝える。それを機に、自分も部屋に引き揚げる。もちろんきちんとベッドメイクが済んでいた。件の一行は、何とか中に入れたようだった。そのまま作業を続け、ネットも少しいじる。雨は上がったようだがどんよりと曇っていて外は寒々しい、出かけるのをためらっているうちに日が陰ってきたので、すっかり出かける気を失くしてしまった。ダウンロードしたバーミンガムの都市計画資料を眺めながら、テレビを点けてみたのだが、信号の受信状況が悪いようで、しょっちゅう止まってしまう。たまたまitvに合わせていたので、『刑事コロンボ』や、『クロコダイル・ハンター』の総集編のようなもの(1回だけ生で見たことがあるスティーブ・アーウィンが、2006年に事故死していたとは知らなかった)、映画『ダイヤモンドは永遠に』などを見るとはなしにちらちら見ながら(音量は最小に絞って)、午後6時頃にすっかり暗くなるまで、もっぱら資料のチェックと、日記書きをして過ごした。 夕方のニュースの時間になり、電波も安定していたので、音量を上げてニュースを見る。ウクライナ情勢の緊迫が大きく報道されている。ソチの冬季五輪が終わったとたんというのも、あまりに露骨である。ふと気づくと、かなりしっかりした雨音がしだした。時計は6時半になっている。買い物に出かける気も、夕食を食べに出かける気も完全に失せて、本当に外出しない一日になってしまった。ここ数日かなり歩いていたので、自重しろと言われているような気がした。手持ちの食材をほとんど食べ尽くして夕食を済ませる。8時過ぎには部屋の電気を消してテレビを見始めたが、すぐに眠りについた。 | |||||||||
■ 2014/03/03 (Mon) バスで回れば、棒に当たる Birmingham Birmingham: Awentsbury Hotel |
6時少し前に起き、メールチェックをする。しばらく日記を書いたり、ウィキペディアをいじったりして、8時過ぎに階下の食堂へ行く。昨日、ホテルに入れずに困っていたカップル(昨日見たのは3人だったが、止まっていたのは2人だったようだ)が少し遅れてやってきた。どうやら二人はドイツ人らしく、昨日の朝も見かけた別のドイツ人カップルとドイツ語で情報交換を始めた。残念ながら自分の錆び付いているドイツ語ではほとんど聞き取れないが、どうやらバスの乗り放題チケットのことを話しているようだった。
行き交う人を見ていると、イスラム教徒らしい姿の人たちが目立つ。店の看板にもアラビア文字風なものが多い。後で聞いたところでは、パキスタンから来た人たちが多いのだという。ボーズリー・グリーンを東へ少し戻り、保全地域にかかりかけたところでブレイクランド・ストリートを右折して南へ進む。この両側は保全地域からギリギリ外れていて、20世紀後半以降と思われる公営住宅風の建物も見える、通りがヤードリー・グリーン・ロードに突き当たるところに、重要文化財建築物に指定されている建物があるはずなので確認しに来たのだが、ここは現在はイスラム教関係の教育施設になっていた。後で聞くと、もともとはサムソンとライオンという名のパブだったが、長く空家になっていたところに、最近になってこの施設が入ったらしい。ここから少し東へ向かって次のドラモンド・ロードへ左折して保全地区内に入る。あたりには「1910」と建設年次を壁に掲げた建物などもある。このまままっすぐ行くと小学校の前に出るが、マーチモンド・ロードへ右折し、さらにダニエル・ロード、フィンモア・ロードと少しずつ東へ進んでいく。教会附属の保育園の先でボーズリー・グリーンに出て、さらに右折して東へ進み、保全地区の北東端に位置するラウンドアバウトまで達した。 ラウンドアバウトで写真を撮っていると、足を怪我していて、ちょっと歩きづらそうにしている男性が声をかけてきた。どうやら、さっき写真を撮りながら歩いていたフィンモア・ロードの住民らしい。もしかして建築の歴史に興味があるのか、と尋ねられたので、建築というより都市計画史に関心があると答えると、時間があるなら地元の郷土史愛好家が集っているカフェに来ないかと誘われる。こういうことが起こるフィールドは「呼ばれている」感じがする。とりあえず誘われるままに、バス停前の「クロスオーバー」というカフェに入る。ここは地域の人の溜まり場らしく、声をかけてくれたD氏も関わっている郷土史グループがいつもだれかいるようなところだという。最近、ヘリテージ・ロタリー(文化財保護宝くじ基金)の助成をもらっていろいろな動きがあるらしい。とりあえず、このグループのチラシをもらい、店内にあった簡単なディスプレイ(これも助成金で作ったもの)を見て、D氏や居合わせたH氏と話をする。お茶を飲んで一休みした後、D氏に誘われて、自分で全面的に改修している最中だという自宅に寄らせてもらう。修繕中の家屋に入る機会はなかなかないので、貴重な経験だった。祖母の遺品から出て来たという写真アルバムなど、貴重なものを見せてもらった。 既に2時を大きく回っていた。D氏の家で話しているうちに雨脚が本格的になってきたが、とりあえず謝意をのべて自宅を後にし、さらに教えてもらった「リトル・パーク」と通称される緑地を少し眺めてから、ボーズリー・グリーンに戻り、97番バスで中心部へ向かった。次に、ハーボーンへ向かおうとしたのだが、ムーア・ストリートからブルリング脇へ移動する間も、かなりしっかりした雨に濡れてしまい、しばらくブルリンクの中に入って座って休む。3時をかなり回ってから、ブルリング脇のバス停に戻り、今度は99番バスに乗ってハーボーンへ向かう。このルートはダブルデッカーではない、普通のバスで、沿道には興味深い建物がいろいろあって面白いのだが、雨のせいもあって窓越しには写真が撮れない。しかも、住宅地の中のカーブも起伏も多いルートを結構なスピードで進むので、しばらく乗っていて気持ちが悪くなってきた。ハーボーンのどこ辺りを見るべきか掴みかねている間に、バスはハーボーンの商店街を抜け、さらに先の住宅地を抜けて、隣のワールズ・エンド(つまり「世界の果て」という意味)まで来てしまった。とりあえず、戻ることにしてバスを降りると、程なくして反対側に逆方向の99番バスが来たので飛び乗ると、ちょうど中学校の下校時間に当たっていてリーソーズ中学校の子どもたちが社内で大騒ぎをしていた。少々閉口しながら車内半ばの席に着く。車内の前の方では10人ほどが大騒ぎをしているし、隣の2人がけの席では男の子と女の子がじゃれあっている。いやはや。ハーボーンの商店街に入る前に車内は静かになったが、さすがは「世界の果て」の子どもたちだったということか。 ハーボーンの商店街に差し掛かったところでいったんバスを降り、商店街の端から端まで、ときどきは、やって来たバスに短区間乗りながら行ったり来たりした。街角の告知版で、地元の案内パンフレットの最新版を図書館で販売していることを知ったが、行ってみると図書館は月曜休館ということだった。今日は、ハーボーンについては保全地区の地図も確保できておらず、範囲も確認できず、写真も商店街しか撮れなかったので、改めて明日以降に足を運ぶことにする。最終的には5時過ぎに97番バスに乗り込み、ファイブ・ポインツ経由でバーミンガムの新図書館まで移動した。新図書館では、郷土資料のチェックをして、古いOS地図のコピーを少し取った。7時頃に帰ることにして1階に降りたが、売店がまだ開いていたのでお土産に安物のクマを買う。 ブルリング脇のバス停まで行く途中で、テスコ・エクスプレスに寄り、前にも買ったガーリック・ブレッド、ほうれん草、ブリーチーズを買う。63番バスを大学南門で下車し、宿に戻ったのは8時を少し回ったころだった。資料の整理を少しだけやってから、ネットをいじったが、10時頃には眠くなったので、灯りを消して寝た。 | |||||||||
■ 2014/03/04 (Tue) 歩いてハーボーンへ Birmingham Birmingham: Awentsbury Hotel |
朝、目覚めたときには外がまだ暗かったのでもっと早い時間かと思ったのだが、既に6時近かった。しばらくしてスカイプをつないでみると、ちょうど家内が応答可能な状態だった。実は少し前から何回か先方からかけていたらしい。このところ、ようやく時差ぼけが直ってきたのが、起床が普通の時間になっているということだろう。昨日出かけたハーボーンに出かけ直すつもりなので、少しネットの情報を探し、ウィキペディアの項目の日本語訳をやりかけたが、8時を回ったのに気づいて朝食に下りて行く。 食後は、昨日までにきていたメールに返信したり、新しいメールを書いたりとバタバタしているうちに結構時間が経ってしまう。ところが、10時も回り、送るべきメールもすべて書き送って、いざ出かけようという気になったところで、壊れていない方のカメラの電池を充電していなかったことに気づく。これでは出かけても仕事にならない。とりあえず、充電を始め、日記を書く。そうこうしているうちにルームメイクが来たので部屋を開け、しばらく食堂で作業し、結局12時半ころに部屋に戻って出かける準備をする。
図書館からの帰りに、ハイ・ストリートを東へ向かい、昨日入った、セツルメント関係のチャリティ・ショップに入り、目をつけていた器を探したが、どうやら既に売れてしまったらしい。代わりに、昨日は買うかどうか迷った茶器セットを思い切って買う事にした。図書館で借りた資料でいっぱいになったリュックを背負い、両手にそれぞれ買い物を下げて、来たときとは違うルートで宿を目指す。途中で見当を付けてクイーン・エリザベス病院の中を通ってバーミンガム大学へ抜けたのだが、いろいろ勘違いをしてしまい、結果的にとんでもなく大回りというか、迷い道をして、へとへとになって宿へ帰り着いた。部屋に戻ったときは既に4時を回っていた。とりあえず背負った荷を降ろす間もなくベッドの上に倒れ込んで息を整える。他の客が帰ってくる前にと思い、バスルームのバスタブに湯を張って、30分ほどぼんやり浸かっていた。 | |||||||||
■ 2014/03/05 (Wed) テルフォードへ Birmingham, Telford &Wrekin Birmingham: Awentsbury Hotel |
朝は6時過ぎに目覚め、すぐに部屋の電灯を点け、出かける準備をする。朝7時半に荷物も持って階下へ行き、朝食を頼む。今日はいつもより少し軽め、早めに食べ終わるようにしたが、それでも日本の日常的な朝食寄りはやはり時間が自然にかかる。食事が済んだ後もそのまま食堂でネットをつなぎ、階段の踊り場のトイレで用を足してから、8時20分ころに宿を出た。 歩いてセリー・オーク駅へ行くと、ちょうど通勤時間帯とあってかなりの人がいる。帰りのことを考えて(テルフォード・セントラル駅と料金が同じである)ウェリントン駅までの往復切符を買う。£12.00だが、オン・ピークなのでやむを得ない。ネットで買うと一割以上安いはずなのだが、正直なところ買い方がよく分からないので仕方ないところだ。少し遅れてやってきた列車にぎゅうぎゅう詰めの状態で乗り込み、ニュース・トリート駅で乗り換える。乗り継ぐ列車の発着プラットホームが5bに変更されていて少々まごついたが、シュリューズベリへ向かう列車は、通勤ラッシュとは逆方向なので空いており、ゆっくり座れた。テルフォード・セントラル駅で下車して、テルフォード・センターへ向かう。ショッピングセンターの中は、昨年来た時より少し空き店舗が目立つような気がした。バス・ターミナルの窓口で一日券£4.20をカードで買う。ふだんバスで買うと紙テープの券になるが、日付が手描きされた名刺大のチケットをもらう。20分ほど待って、77番バスへ乗り込み、ライトムアへ向かう。相変わらず狭い道を縫うようにバスは方向転換を繰り返しながら進み、乗っていて少し気持ちが悪くなる。それでも、昨年より開発が進んだ住宅地区の姿などが目に止まり、そちらに気を採られているうちにバスはライトムアの入口に近づいた。目的地のひとつ手前の、まだ何もないのに停留所があるところで下車し、ヴィレッジ・センター街区へ歩いて行く。 11時少し前にBVTの現地オフィスへ行き、来意を告げると、程なくしてW氏が下りてきて、一緒にコミュニティ・センターの部屋でお茶を飲みながら話す。今日は正午から次の用事があるということなので、かなりの密度で細かい疑問点への説明などを聞き取った。正午になり、一緒にオフィスの方へ戻ると、入口のところにS氏がいて声をかけてきた。月に一度は、会議等でこちらに来ているという。そのまましばらく立ち話で話し込む。S氏と分かれた後、斜面の下の方に位置する地区の方へ回り、まさに新しく家を建てている最中のセンター街区の南側の部分や、開発地区の中に取り囲まれる形になった既存家屋の一帯などを見に行き、ストーニーヒルの道へ出て西へ向かい、新たなライトムア・ヴィレッジへの導入路沿いにセンター街区へ戻った。ザ・クロッピングス街区の辺りで、1時間に1本のバスが通過していくのとすれ違った。写真を撮りながら歩いていて、意外に時間がかかったということだ。結経、バス停のあるセンター街区に戻ってから、作秋に開店したばかりのカフェでお茶を飲んで時間を潰すことにした。茶とケーキで£3.20だったが、£5.00以上でないとカードが使えないとい言われ、それならともうひとつケーキを注文して£5.40を支払う。結局40分間ほど、店でぼんやりとすごした。
ウェリントンに着いたのはちょうど5時になろうかというタイミングで、店はあらかた閉まっていた。残念だったのは、去年来たとき随分世話になった古書店が、店構えはそのまま残っていたものの廃業してペットショップになっていたことだった。図書館へ行き、簡単に調べ物をして、数ページ分だけだがコピーを取った。ウェリントン駅に着いたのは6時少し前で、あまり待たずにバーミンガム空港行きの列車が来た。ニュー・ストリート駅で乗り継いで、セリー・オークマで戻ったのは7時ころだった。アルディの店に立ち寄って、ジンジャー・ビアとカップ・スープを買う。結局、部屋に戻ったときには、7時半を回っていた。 部屋に戻ってから、少しネットをいじってウィキペディアの編集もし、資料の整理もして、何やかやと午前2時ころまで起きていた。こちらに来てからでは最も遅くまで起きていたことになる。 | |||||||||
■ 2014/03/06 (Thu) 再びボーズリー・グリーンへ Birmingham Birmingham: Awentsbury Hotel |
朝は7時過ぎに目覚める。外は明るくなり始めている。これまでで一番遅くまで寝ていたことになる。とりあえず、やらなければいけない日本から積み残してきた仕事2件があるのだが、それができるほど頭はすっきりしていないので、ついついウィキペディアをいじる。朝食をとってから、部屋に戻って支度をし、10時ころに宿をでる。曇天で、今にも雨が来そうな雲行きだ。まず、大学南門から63番バスに乗ってBVTのオフィスへ向かい、昨日W氏に持参し忘れた日本からのお土産をレセプションに預ける。バス停に戻り、再び来たバスでノースフィールドまで行き、ここでウィーリー・キャッスル方面へのバスを待とうとしたのだが、20分くらいは来そうにないことが分かる。しゃんリー方面に少し歩いてみようという気になり、商店街からはずれて歩き出したのだが、雨脚が強めになってきたので交差点からさほど離れていない最初のバス停で雨宿りをする。やがて49番バスが来たので、これに乗り、ウィーリー・キャッスル地区の中心であるキャッスル・スクエアに到着した。この一帯は、1930年代に公営住宅地として短期間のうちに一挙に開発されたところで、ニュータウンの原型ともいえるような場所である。とりあえず図書館に行き、近傍にある、地名の由来となった遺跡の場所への行き方を教えてもらう。 図書館から10分ほど歩いて、ウィーリー・キャッスルの遺跡へ行く。この場所は、実際には戦闘用の「城」ではなく、濠を巡らせた荘園領主の館の跡であり、現在は濠の跡と建物の土台の石組みだけが残されている。本来なら、敷地を見渡せる眺望のための場所が公開されているはずだったのだが、なぜかそこへの入口も施錠されていて入れず、仕方なくフェンス越しに写真を撮る。敷地の南側はウィーリー・キャッスルの住宅地の北のはずれの緑地斜面になっているのだが、ここを登れば遺跡を見下ろせるかもしれないと思い、歩道沿いに斜面を登ってみると、確かに良い眺望になる。いい角度を求めて歩道から外れ、濡れた芝生の上に出てしばらく写真をとっていた。そのまま住宅地へ向かう歩道に戻ろうとして、最後の一歩で泥に足を滑らせ、転んでしまった。左の膝と肘から手先にかけて、それとリュックの一部が泥まみれになる。とりあえず、泥を払いながら図書館に戻ることにする。図書館では、郷土資料の棚を見ていくつか面白そうなものを見つけた。ちょうど、ハーボーン図書館から借りていた資料を返そうと思ってリュックに入れていたので、これをここで返却してしまい、代わりにウィーリー・キャッスルの資料を借り出す。 図書館を出て、29番バスに乗り、ハーボーンへ移動する。既に正午近くになっているが、当初考えていたようにハーボーン鉄道の軌道跡を歩いてみることにして、まずは保全地区内の施設の写真をとりながら駅があったはずの辺りへと進んで行く。途中で警察署があったので、ここで遊歩道の入口を尋ねると、少し時間がかかったが地図をプリントアウトして渡してくれた。それに従って進むと、途中で別の分かりやすい入口が現れたが、あえて教えてもらった通りに進んで、猫道のようなところから軌道跡に入る。ちなみに半世紀前まで鉄道の駅があった一帯は、先ほどの警察署を含め、業務施設や公共住宅の用地になっていた。警察署では、泥道になっているところがあるかもしれないと注意されたのだが、幸い道はしっかりと整備されていて、その心配はなかった。最初はかなり高い築堤の上を進み、やがて切り通しに変わる,といった具合で、本来かなりの高低差があるルートを進んでいることがわかる。途中には3カ所駅があったはずだが、痕跡らしきものはまったくない。最後はサマーフィールド・パークという大きな公園に出たが往時の線路敷は、この辺りでは掘り下げられた溝上のルートであったはずなので、あとからすっかり埋め戻されたということらしい。そのままイックニールド・ポート・ロードをこえて緩やかに右へカーブする緑地沿いに進み、バーミンガム運河に残された、かつての鉄橋の痕跡である橋台と橋脚を眺める。そのまま運河沿いの道に入って、結局、中心部に近い国際会議場の辺りまで歩いてしまった。 結構疲れてしまったので、歩いても行ける距離なのだがバスに乗り、バーミンガム大聖堂まで行く。既に2時半近くになっている。急いでムーア・ストリートへ向かい、そこから97番バスに乗ってボーズリー・グリーンへ移動した。カフェ「クロスオーバー」の前のバス停に降り立ったのは3時近くになっていた。D氏の家に向かい、ドアをノックする。はっきり約束していたわけではないが、2時を目処に行くと連絡してあったので、遅れたことを詫びる。とりあえずカフェで少し話そうかということで、クロスオーバーへ行ってみたが、この店は午後3時で閉店だった。内心、お茶の時間に閉まっちゃうなんて、と思ったが、もちろんこれは日本人の思い込みである。 D氏にさそわれるままに彼の車(姉の遺品だという1990年代のメルセデス)に乗り、まずモーズリーの街中へ行く。友人がやっている店だというコーヒーハウスへ行き、カフェラテをご馳走になる。事前に自分のウェブページや、大学のウェブページを見てくれていたようで、ボーズリー・グリーンのこと以外に、大学のこと、趣味のこと、生い立ちのことなどを、かなりの時間、話し込んだ。5時半からやっているアストンの店で食事をどうかと誘われたので、もちろん喜んで一緒に行くことにする。アストンへ移動する途中で、ちょっと用事があるということで、欧州車専門のパーツ屋に立ち寄り、しばらく待っていてくれと言われる。やはり自分で車をいじるのが当然という人なのだろう。午後6時を回って到着したアストンの店は、「The Bartons Arms」というヴィクトリア期からのパブなのだが、とにかく内装のタイルが豪華の一語だった。去年アイアンブリッジで立ち寄ったタイル博物館のかつての商品見本室を思わせるような造りだ。おもしろいのは、パブとしても現在も営業しているのだが、奥のレストランはタイ料理を出しているということだ。実はD氏はタイで仕事をしていた時期が長く、「読み書きはできない」といいつつ、店員の女性たちと達者なタイ語で話している。何がいいかと言われたので、素直にグリーン・カレーとトムヤムクンと答えると、辛くてよいかと確認された上で、本格的かつ上品なカレーとトムヤムクンが出てきた。30ポンドちょっとの勘定は割り勘にしてもらい、自分のカードで支払い、D氏は£15を現金でこちらに、小銭をチップとしてテーブルに置いていった。 結局、車で送ってもらい、宿に戻ったのは午後9時ころだった。日本から持ち込んでいる仕事の続きをするが、さすがに疲れている上、おいしいものをしっかり食べたので、眠気がしたところですぐに寝ることにし、午後10時過ぎには眠ってしまった。 | |||||||||
■ 2014/03/07 (Fri) エジバストンとザ・バック・トゥ・バックス Birmingham Birmingham: Awentsbury Hotel |
朝4時過ぎに目が覚め、トイレに立ち、そのまま起きていることにする。日本から持ってきた少々厄介な宿題の仕事を仕上げる。昨日、路線跡を歩いたハーボーン鉄道に関するウィキペディアの記事を少しいじる。6時を過ぎてからは、今日出かける予定のコート15についての情報を確認したり、昨日ウーリー・キャッスルの図書館から借りてきた資料に目を通したりと、作業をし始める。8時をかなり過ぎてから朝食に下りて行く。ゆっくり食べているうちに残っているのは自分だけになったので、お茶を飲みながら、そのまま食堂で家内にスカイプをつないでゆっくり話す。食事後、奥のキッチンへ行き、延長した分の素泊まりの料金£29.99を精算してから部屋に戻る。テレビでは、『Heir Hunter』という遺産相続人を探すビジネスの番組をやっていて、ついつい見てしまう。続けて『Home under the Hammer』も洗濯をしながら見てしまった。どちらのイギリスらしい番組だ。 11時頃、宿を出て、まず昨日ウィーリー・キャッスルで借りたコピー可能な資料のコピーを取りに、セリー・オークの文房具店「デルタ・パイ」に行く。午前中はA3が1枚8pと割り引かれている(午後は12p)。ここでは30枚A3のコピーを取り、カードで支払えた。その足でセリー・オーク図書館まで行き、ノースフィールドから借りている1冊の本を残して、跡の資料を全部返却する。そこからブリストル・ロードを取って返し、大学東門の方へ向かった、ここから大学の学生宿舎などがあるエジバストン・パーク・ロード沿いの地区の写真をとりながら、エジバストンへ行く。ここでは、以前も見に行ったリチャード・キャドバリーとジョージ・キャドバリーのプルー・プラーク付きの家をまた見に行った。今回改めて確認したのだが、このふたつのブルー・プラークはイングリッシュ・ヘリテッジによるもので、バーミンガムの同種のものとしては、比較的珍しいということになる。リチャードの家からウィーリーズ・ロードを少し戻り、ジョージの家を見てからジョージ・ロードで広い道へ出てファイブ・ウェイ駅の前を通り、チャイナタウンまで行く。 今日のおもな目的は、ナショナル・トラストが所有しているザ・バック・トゥ・バックスである。チャイナタウンの一角にあるザ・バック・トゥ・バックスは、「背中合わせ」という含意の通り、壁一枚で2軒の家が背中合わせになっている(当然、占有する庭はない)という状態を表現だ。郊外住宅地との対比でしばしば言及される形態の住居だが、現物が残っているのはバーミンガムでもここだけになっている。もともと「コート15」と呼ばれていた一角には、全部で11戸があり、舗装された中庭には共同の煮洗い場とトイレがあった隣の区画との間は2巻建てほどに相当する煉瓦積みの壁で区切られており、まさにコートである。現場に到着したのを1時を少し回った頃で、ちょうど小さなグループ・ツアーが内部に入っているところが見えた。受付けに行くと、次のツアーは午後3時だということなので、予約を入れて、先に1階(日本式の2階)の常設展示を見に行く。模型がよくできていて、全体像がよく分かった。旧住民の証言は、なかなか聞き取れず、断片的にしか分からなかったが、壁紙の普及についての話は面白かった(19世紀半ばまで壁紙には高い税金がかかっていたのだという)。常設展示を見てから、いったん受付けに降り、先に古い地図の復刻版など、販売されている関連資料を先に購入する。 まだ1時間半以上時間があるので、ブルリンクの屋内市場へ行き、土産物などを探すが、ついつい目が行ってしまい、中古CDを買ってしまう。午後2時半になっているが、かなり疲れてきたのでとりあえずバック・トゥ・バックの向かいのドラゴン・インという店に入り、スープとパン(£3.50)を注文する。給仕が少し遅かったので、3時ぎりぎりまでかかってスープとパンを平らげて、目の前にある集合場所の菓子屋跡へ行く。最初に案内人かと思った人は、実はツアー参加者だった。その人たちを含め7人ほどのグループで、ボランティア・ガイドの女性に率いられ、2時間近くをかけて、建物の中を見て回った。展示方法として面白いと思ったのは、住居を1840年代、1870年代、1930年代にそれぞれ実際にこの場所に住んでいた人々の生活の様子を再現するという展示の仕方で、最後は1970年代の(住居ではなく)紳士服店の仕事場が再現されていた。バック・トゥ・バックといっても、3層に部屋があるため、日本的な感覚からすれば、決して極端な狭小住宅でもない。ただし、19世紀にはそこに多数の子どもたちが、例えばベッドに4人で寝るというような形で、高密度に生活をしていたということを考慮しなければならない。結局、ひと通り見終わったときには5時近くになっていた。 そのまま歩いて新図書館へ向かい、地図のコピーをとる。新図書館を出たのは、午後6時だった。既に薄暗くなっているが、カナル・ウォークでセリー・オークまで戻ることにする。最初は良かったのだが、段々と暗くなり、また、カナル・ウォーク沿いの照明も少なくなって行き、結局、大学施設が散在する辺りでそれ以上進むのをあきらめ、一般道に上がって、朝歩いたコースを逆行する形で大学南門まで戻り、ホテルへ帰った。部屋に帰り着いたときには、午後8時近くになっていた。ベッドでしばらく作業をしているうちに眠くなり、照明を落としてなおも作業を続けたが、結局そのまま寝入ってしまった。 | |||||||||
■ 2014/03/08 (Sat) 改めてボーンボルの保全地域を歩く Birmingham Birmingham: Awentsbury Hotel |
ずいぶん長めの、あまり後味のよくない夢を見てから目覚め、トイレに立つ。外は白みかけていて、6時を回っていた。そのまま起きることにして、少し溜まった日記を書き始める。9時近くになってからぎりぎりに朝食に下りて行く。明日は朝食なしにしてあるので、これが今回は最後の朝食である。さすがに10日続けてとなると、飽きてくるというか、ありがたみがかなり薄らいでいる。もうそろそろ移動を意識して荷造りをしなければならない。とりあえず、もう帰国まで着ない衣類やこれまで買った土産物などをスーツケースに詰め込んでみた。 午後2時45分ころ、ノースフィールド図書館に到着。ここから借りていたボーンヴィルの本を1冊返却する。今回、借り出した図書館にそのまま資料を返却したのは、セリー・オークから借りた1冊と、この1冊だけになる。郷土資料のコーナーへ行き、少し休む。3時ころに図書館を出ようとしたときに、先日とは違う展示がしてあるのに気づいた。婦人参政権運動の話題の展示だったのだが、その運動の中で、1914年にノースフィールド図書館が放火されたという話が紹介されていた。カウンターにいた司書にこの件で少し話を聞くと、オリジナルの図書館当時の写真を何点か見せてくれた。 図書館を出て、ノースフィールドのチャリティ・ショップで、少し買い物をする。スー・ライダーの店で、少し汚れた10年ほど前のバーミンガムの空中写真集のやや大きめの本が1冊£1.50だったのが目に止まったのだが、同じ£1.50の棚から3冊ならまとめて£2.00とあり、ついついDIYの本屋、スケッチ・エッセイの本などを一緒に買ってしまう。また、荷物が重くなってしまった。そのままブリストル・ロードを歩いて戻り、途中で小川沿いの抜け道を経て、デイム・キャドバリー校の前からグリーンに抜ける。お土産を買う最後の機会と考えて、キャドバリー・ワールドのショップへ行き、工場でしか買えない型くずれ品の袋詰めを買い足す。 ホテルへの帰り道、途中のフィッシュ・アンド・チップス屋「ドルフィン」でフッシュ・アンド・チップスを1人前買う。おまけに豆のディップというか、熱いソースが付いてきた。部屋に戻り、早速食べる。今回の旅では最初で最後のフッシュ・アンド・チップスである。これで「スモール」なのだが、当然のように食べきれず、少し残してしまう。その後は、ネットの作業をしたり、日記を書いたりしながら、だらだらと起きていた。 | |||||||||
■ 2014/03/09 (Sun) バーミンガム最終日 Birmingham National Express service to London Heathrow Airport |
朝4路過ぎまで起きていて、ゆっくり寝るつもりだったのに、7時過ぎにはトイレに立ってしまい、そのまま起きてしまう。今日は、朝食は頼んでいないので、昨日のフッシュ・アンド・チップスの残りなど、手持ちの食材の残りをあらかた食べ尽くす形で朝食にする。スーツケースとリュックに加え、ボストンバッグひとつ分の荷物ができあがった。 荷造りをすませて、下に降り、億のキッチンへ行き、夕方までに荷物を置きたいと伝えると、廊下に置いておくように言われる。鍵は宿帳のところに置き、身軽になってバーミンガム大学南門の方へ向かう。バス停には10時少し前にはアウトバウンドの停留所に到着したのだが、日曜日なので少し運行本数が少ないのか、10時を少し回ってからようやく61番バスが来た。デイセイバーは買い、ロングブリッジまで乗って行く。バスがブリストル・ロード・サウスを右へ進む直前で下車し、そのまま直進して、最初にS氏が紹介してくれた、旧オースチン関連の工場跡地の住宅地開発を見に行く。最初の道路沿いの住宅で、道にいた住民に少し話を聞いてみると、ここは昨年完成したばかりという事で、1戸15万ポンドから28万ポンドくらいということだったらしい。住宅地の先で左折して、現在のMGローバーの前を通る。社屋にはユニオンジャックと並んで五星紅旗がはためいている。道の反対側の広い緑地では、なだらかながらやや傾斜のある芝生のフィールドで、草ラグビーに励む人たち、ジョギングや体操をしている助成たちが目立つ。その先で、パーシモンが手がけている住宅地を見て回る。今日は日曜日で、ショールームも開いているし、実際に商談に来ている脚もいた。ここはベッドルームが2から4部屋のいろいろなタイプが扱われている。ショーハウスも見たが、なかなか飾り付けに凝っているところが面白い。 パーシモンの開発地を見た後、いったん来たときの道を戻りかけたのだが、少し先にベッドルーム4部屋の家ばかりを建てているという開発地の宣伝幕が出ているのに気づき、脚を伸ばしてみる事にする。するとあたかもボーンヴィルかと思わせるような20世紀前半の開発地が広がっており、その先に、新しい売り出し中の住宅開発地があった。どの家も、外装はシンプルな煉瓦積みで少々味気ないくらいだが、ショーハウスの内部をみると、2階建てでベッドルーム4部屋というのが、いかに贅沢な造りかがよく分かる。そのまま民宿ができそうな造りである。こちらで扱っている物件は45万ポンドくらいということで、なるほどと思う。売れ行きもなかなか好調のようだった。 開発地を一回りしてから、集落の入口まで戻ると、ちょうど49番バスが折り返しの時間調整で停まっていた。早速乗り込んで、本当はいけないはずだが、持参したガーリック・ブレッドの残りやオリーブなどで昼食を済ます。やがて発車したバスは、オースチン・ヴィレッジのそばなどを通過し、キングズ・ノートンを経て、セリー・パークを通り、中心部へ向かう。ブルリング脇でバスを降り、新図書館へまたまた地図のコピーを取りに行く。行ってみてから、地図を見なければと思うというのは後手後手なのだが、こういう粗忽なところは自分らしいと言えば自分らしい。 取り終えたコピーを持って、再びブルリング脇のバス停まで歩き、63番バスで大学南門へ戻った。ホテルに戻ってチャイムを押し、預けていた荷物を受け取って、再び出発した。トロリーに車輪がついているとはいえ、重くなっている荷物はなかなか思うように動いてくれない。背中のリュック、左肩のボストンバッグも、なかなか厳しい重さになっている。 バーミンガム・コーチ・ステーションにたどり着いたのは3時半ころだった。帰りの券はオープンなので、乗る便を確定させなければならない。窓口へ行くと、今からなら午後5時の便が最初と言われる。ちょっと間が空くが、ヴィクトリア行きではなく、空港経由便だとそんなものかと思う。荷物が重いので、そのまま席に座り、靴を脱いで脚をラゲージの上にあげ、ホッとする。少し時間があり、インターネットもある間にと、日記を書き始めるが、途中でパソコンを膝に乗せたまま20分ほど寝ていた。 予定通り5時少し前に到着した210便ガトウィック空港行き祈り込み、後方右手の非常口の席をとる。この位置はトイレに近くで、においが少々気にはなるのだが、脚が思いっきり延ばせるのでありがたい。実際、乗っている間は、ほとんど足を前のふたつの座席の隙間にあげて、楽にしていた。ヒースローへの到着は予定通り8時少し過ぎだった。バスを降り、荷物を受け取って、そのまま路線バス乗り場へ向かい見当を付けて114番バスに乗る。空港敷地を出てすぐにホリデイ・インが見えたので、早速下車し、フロントへ行く。ところが、これが間違いで、空港近くには複数のホリデイ・インがあることが分かり、バース・ロードをもっと東へ進んだところにあるホリデイ・イン・ヒースロー・エアリアルが目的地だと分かる。一度宿に着いたとホッとした後に、宿の入口から降車したバス停まで荷物を曵いて移動するのはしんどかった。結局、正しい今夜の宿泊先であるホリデイ・イン・ヒースロー・エアリアルにたどり着いたのは、午後9時近くになった頃だった。ちょうどバウム・クーヘンのような円筒形の4階建ての建物で、部屋は「3階」(日本式では4階)の337号室だった。部屋の窓を開けると、中庭、というか、中空の空間側に面していて、まさにパノプティコンさながらである。 最初は、部屋に荷物を置いて、食事をとりに空港へ戻ろうか、などと考えていたのだが、いったん部屋に入ると、もう出かける気も失せてしまい、手元に残っていたマフィンなどを食べて夕食を済ませ、ゆっくりバスタブに浸かる。裸のまま身体を少し乾かし、バスタオルだけをかけてベッドに横になり、そのまま眠ってしまった。 | |||||||||
■ 2014/03/10 (Mon) ロンドン Birmingham Birmingham: Awentsbury Hotel |
夜中の1時半近くに一度目が覚める。風呂から上がって、裸のまま寝ていたので、寒さを感じて目が覚めたのである。トイレに行き、テレビを点けると BBC One では、ラジオの討論番組のテレビ版をやっていた。しばらくすると、天気予報を挟んで2時からニュースとなったので、そのまましばらく見ている。バーミンガムの宿ではテレビの状態が思わしくなかったのでニュースをほとんど見ていなかったのだが、マレーシア航空機のニュースを初めて知った(発生後3日目)。最初「MH370」が「NH」かと聞こえてしまい。一挙に目が覚めた。ちなみに、若田氏がISSのコマンダーになったというニュースもやっていた。久々に画面が乱れないテレビを見た感じで、しばらく見てしまう。3時ころテレビを点けたまま眠り、次に目覚めたのは7時少し前だった。テレビを点け直し、そのままニュースや、『レストラン・マン』などを見ながら、日記を少し書き、身繕いをする。 宿を出たのは10時45分。140番バスで空港まで行き、地下鉄駅の窓口でトラベルカードを買う。いつものように、ピカデリー線でサウスケンジントン駅へ向かった。もちろんRGSへ行くためだが、ここでカメラを取り出そうとしたとき、ポケットから5ポンド札がこぼれ落ちた。拾おうとしたのだが、出口への道から吹き込んできた風に飛ばされて、線路内に落ちてしまった。もちろん線路には降りられない。2-3分間隔で列車は来るし、何しろ高圧電気がレールを通っているからだ。目の前に緊急時連絡用のインターホンがあったので、emergency ではなく information の方のボタンを押して、応答した駅員に事情を話す。すると、人をやるから待っていると言われる。程なくしてアラブ系と思しきずんぐりむっくりした駅員がやって来た。落とした5ポンド札の場所を示し、取ってもらえるか尋ねてみると、しきりに無線で指示を仰いでやり取りをしている。とりあえず、電気を切らないととれないので、少なくとも20分、30分はかかると言われる。1時間か2時間後に戻ってくるという事ではどうか、と尋ねると、ディストリクト線のホームにある事務所に行って、上司に聞いてくれと言われる。自分はここで見ていなければいかないので、とも言われた。とりあえず言われるままに駅員室へ行くと、大柄な白人男性の駅員が対応してくれた。事情を聞くと、きわめて率直に、君の金を回収してあげるためではなく、現金が線路に落ちているのを見て、拾い上げようとする奴が線路に下りたりしないよう、部下を配置したのだという。なるほど。とりあえずすぐには電気を切れない、というので、2時間後に来るという事で良いかときくと、そうしてくれと言われる。 ディストリク線のホームから出口へ行き、いつものように地下道を通って科学博物館脇に出て、すっかり面目を新たにしたインペリアル・カレッジの前を通ってRGSへ行く。会費を支払い、新しい会員カードを手に入れた。ティー・ルームに行き、とりあえずコーヒーをもらって一休みする。12時半からランチの時間になり、すぐに席はいっぱいになる。先ほど5ポンドを失くしたので、手元には10ポンド札1枚しか残っていない。ここでは現金しか使えないので、£6.50 のバーガーの昼食などを注文するか、大いに迷う。ここにはネット環境もあるので、結局迷い続けるまま、メール・チェックなどを始める。そうこうしているうちに、ランチの時間が終わってしまったようで、出されていた食べ物などが片付けられてしまった。次の機会には、ちゃんと現金を用意して食事をとりに来よう。午後2時半を回り、ティー・ルームを後にする。オマーンについての展示を少し見てから、歩いてサウス・ケンジントン駅まで戻る。そういえば、40年前に初めてイギリスへ来たときもこの辺りを歩いた覚えがある、などと思いながら、自然史博物館とヴィクトリア&アルバート博物館の間を進む。 ディストリクト線のホームにある駅員室へ行くと、先ほどの担当者から引き継いだ黒人の駅員が、20分ほど前に回収したという5ポンド札を用意してくれていた。遺失物受け取りの手続きをして、無事5ポンド札を回収する。そのまま、ピカデリー線に向かい、レスター・スクエア駅でノーザン線に乗り換えて、カムデン・タウンへ行く。いつものようにマーケットを回り、相変わらず活気に満ちた様子に圧倒されながら、店を見て回る。土産物などを買って4時20分ころに駅まで戻ってきたが、夕食を済ませておく気になり、これまでの何回か入った安い食べ放題のタイ料理(?)の店に入る。ここはロンドンの食べ放題の店としては最低価格水準かと思うのだが(バーミンガムには、もっとひどいものを出し、安いところがある)まだ5時前なので、お茶とサービス料込みで8ポンドちょっとである。とりあえず、B級で、グルメとはいえない。しかし、確実にお腹いっぱい食べられるのが気楽で良い。今回も、心置きなく満腹になった。 5時を少し回って、ディーナーの時間に移る頃合いを見計らい、店を出て、ウォレン・ストリート駅でヴィクトリア線に乗り換え、グリーン・パーク駅まで行く。もちろん、ハード・ロック・カフェへ歩いて行ったのだが、途中にある日本領事館は外装の修理中らしくすっかり覆いで包まれていた。今回はカフェには入らず、ショップでもピンもシャツも買わず、小物の土産物を少し買うだけにした。グリーン・パーク駅までの戻りは1区間だけバスに乗り、ピカデリー線のヒースリー空港のターミナル5駅行きに乗って、ターミナル1・2・3駅で降りた。バス・ターミナルから105番バスに乗って宿に戻ったのは7時ころだった。 テレビを点け、ニュースや、かなり難しい問題を競う大学対抗のクイズ番組、イギリスの電力事情の話(National Grid のドキュメンタリー)、ロンドンへの一極集中を地方都市の話から考える番組など、チャンネルを変えながらいろいろテレビを見続けた。ニュースでは、ウクライナ、マレーシア航空機の話や、国会議員のセクハラ訴訟などの話題とともに、労働党が選挙をにらんで仕掛けたスコットランドの自治拡大〜独立問題に時間が割かれていた。面白いローカルな話題は、最近の水害の原因のひとつが、1990年代以降、河川の浚渫が取りやめになったことにあるという説がある話題だった。dredge という単語は、久々に聞いた気がする。そのまま10時少し過ぎまで起きていたが、最後はテレビを点けたまま眠った。 | |||||||||
■ 2014/03/11 (Tue) ■ 2014/03/12 (Wed) 帰国便 VS900便 機中 |
朝は5時ころに起き、そのまましばらく起きている。テレビはBBC Newsにして、しばらく朝のニュース・ショーを見る。マフィンの残りと紅茶にスープというデタラメな組み合わせで朝食を済ませ、少しでも荷物の量を減らすため、上下とも厚着をして身支度をする。8時少し前にチェックアウトして宿を出る。道の反対側のバス停へ行くと、通勤時間帯とあって、空港行き以外のバスに乗り込む地元の通勤客がたくさんいた。やがてやって来た空港行きに乗り込み、無事空港に到着。ターミナル3のヴァージン航空のチェックイン・カウンターへ行くと、日本人の職員がいてスムーズに荷物をチェックインできた。スーツケースの重量は事前に計量しなかったのに、限度ぎりぎりいっぱいになっていた。リュックとボストンバッグを機内持ち込みにするというと、リュックはよいからボストンだけ計らせろということで、実は10kg近く書籍類が詰まっていたリュックはお目こぼししてもらえた。セキュリティを通過したところで、厚着をしていた上下(上は厚手のシャツを重ね着し、ジャケットの上にジャンパーを着ていた。したはジーンズを二重に履いていた。)をボストンバッグに移し、身軽になってほっとする。こうして、9時前には免税店街の先のロビーで、椅子に腰を下ろした。 搭乗ゲートが告知されないままロビーで2時間ほどを潰し、11時頃に告知された搭乗口へ行く(この日記は後日に書いているので、番号は忘れた)。機材の愛称は Queen of Africa つまり映画の題名と同じ「アフリカの女王」であった。席は後方の通路にも面していない中程の席だったので、フライト中は、ひたすら寝るか、ゲームをしていた。途中、左側の客席の団体客の人たちが、オーロラが見えると大騒ぎをしていた。 飛行機は定刻通り朝の9時少し前に成田空港に到着し、特に誰の出迎えもないまま、いつものように快速エアポートと、総武線、中央線を乗り継いで国分寺へ着いたのは午後1時過ぎだった。バスでアパートまで戻り、荷物を置いてシャワーを浴び、一息入れる。荷物の整理は後回しにして、大学へ向かい、最低限の作業だけして、夕方からのゼミの追い出しコンパのために六本木へ向かった。 |