私的ページ:山田晴通

英国日記:2004年8月9日〜8月28日


 今回の旅行は、グラスゴーで開催された国際地理学会議に参加して発表することが主な目的でした。学会出張扱いになるグラスゴーでの1週間を挟んで、私費で滞在を延長し、ロンドンに前後2週間滞在しました。
 今回は円安ぎみの上、けっこう変動もあって、1ポンドは210〜225円くらいで動いていました。

 見出しに示した地名のうち、青字はその日に訪れた主な場所緑字は宿泊地です。

 同行者K君による「2004年ロンドン ロック史跡巡礼記
■ 2004/08/09 (Mon)
いきなりソーホー見物

VS901便 機中 / London (Soho)
London:
Holland Court Hotel
 今回は、始めて成田での前泊をしてみた。京成成田駅裏の「コンフォートホテル」に泊まったのだが、なかなか快適だった。無料で無線LANが使えるのも嬉しかった。朝食後、京成線で空港へ向かい、同行者のK君と合流し、空港の郵便局と銀行で用事を済ませて、余裕を持ってゲートまで進んだ。
 今回は、ほぼ一年半ぶりのヴァージン便でのロンドン行きである。機中では、気のせいか以前より日本人アテンダントが多くなっていたように感じた。機内の最初の食事で出た和食の弁当は、かなり本格的で大いに満足した。下手な料理屋で同じものがあったら数千円吹っかけられても不思議ではない、というくらいの印象だ。もっともに、その次の軽食で和食を選んだら、ほとんど英国の中華料理のような感じで、こちらはちょっと外した気がした。今回もエンターテイメント・システムの調子が悪く、何度かリブートする羽目になっていた。結局、映画も観ず、音楽も聴かず、バックギャモンかテトリスをやるか、寝ているか、という状態で、ロンドンに着いた。
 ヒースローは、風向きによって西向きで着陸する場合と、東向きで着陸する場合がある。今回は、最初は市街地の北側を飛行したので、旋回して東向きで着陸するのかと思ったら、さらに旋回して結局一回転するような形で西向きに着陸した。窓側に座っていたK君の話では、最後の降下の時には、ハイドパーク辺りから建物が手に採るように見えたそうだ。
 到着後は、まずケンジントンのはずれにある宿へ向かった。普段、宿を予約することはしないのだが、今回は同行者がいるので日本から宿を予約したのである。ところが、日本で地図を見た時に不正確な印象を持っていたようで、実際の最寄り駅であるケンジントン=オリンピアではなく、ハイストリート=ケンジントンで下車してしまった。それに気付かないまま、街路名を頼りに宿を探したのだが、宿があるはずの「ホランド・ロード」が駅周辺の案内図には(当然ながら)見当たらない。「ホランド・ストリート」があるのを見つけて、とりあえず行ってみたが、当然ながらそこには宿はなかった。ちょうど近くに役所の建物があったので飛び込んで尋ねてみると、<前の道をずっと先まで行くと広い通りに出る。そこが「ホランド・ロード」だ>と教えてくれた。お礼を言ってその通りに進むが、ちょっとした坂道を上がり、尾根越えをして広い通りにでてみると、そこは「ホランド・パーク・アヴェニュー」だった。いつものこととはいえ、大英帝国的知ったかぶりにまたしても引っ掛かったのであった。バス停にある地図を眺めて、少し離れた場所に「ホランド・ロード」があるのを確認し、バスでシェパーズ・ブッシュまで行き、そこから番地を頼りに、ホランド・ロードを南下する。途中で番地の付け方が乱れているところがあって少し不安になったが、何とか宿にたどり着いた。
 部屋は半地下のファミリー・ルームでダブルベッド2台が並んでいる。これで一泊72ポンド+税というのは高いが、仕方がない。バスが大きくゆったりしているのが救いである。フロントにいるのはインド系と思しき人々である。
 一息入れた後、9番バスで中心部へ向かい、ピカデリー・サーカスで降りた。K君が持って来たガイドブックを頼りに、カーナビー・ストリートをはじめ、ソーホーのあちこちを見て回った。K君がもってきたガイドブックには、けっこういい加減な記述もあり、番地を頼りにいろいろな場所を見て回った。最後にはソーホーを抜けてトテナム・コート・ロードまで行ったのだが、既に電器店は閉っている時間で、アダプター類は明日また買いに来ることにする。
 オックスフォード・ストリートを少し歩いてから、バスに乗ってハイド・パーク・コーナーまで行き、夕食をとりにハード・ロック・カフェに入った。サラダとナッチョスを頼んだのだが、二人がかりでも食べきれなかった。食事の途中で眠たくなってしまい、そのまましばらくウトウトする。
 帰りは、9番バスで宿まで戻ろうとしたのだが、寝てしまい、そのまま終点のハマースミスまで乗ってしまった。折り返し10番バスで帰ろうとしたのだが、今度は降りるところを見落として、ハイストリート=ケンジントンまで来てしまった。再度バスに乗り、ようやく宿に近いバス停で下車した。
 さすがに疲れているのと、満腹感で、風呂にも入らず、すぐに眠りについた。
■ 2004/08/10 (Tue)
エレクトリック・アヴェニューは実在の地名だったのか

London (Russel Square, Brixton, Victoria)
London:
Holland Court Hotel

電器店のない?『電気街』(秋葉原ではない)

『冷蔵庫』のお向いさんの聖マタイ教会
 朝の7時半からの朝食に合わせて起床。朝食をとるラウンジは、部屋と同じ地階にあり、なかなかこぎれいである。サービスしてくれる女性はロシア語?と思しきスラブ系の言語を喋っている。このホテルは、フラット2軒分を改装したもので、1軒分の地階がわれわれの部屋とラウンジになっているわけだ。朝食後、部屋で少し下準備をし、ゆっくり休んでから、断続的に雨が降る中、10時過ぎに宿を出て、まず通い慣れたラッセル・スクエアへ向かった。たまたま、パディントン経由のバスが来たのでこれにのり、途中で別のバスに乗り継いで、キングス・クロスで降り、一人で来る時の定宿が並ぶ一角へ行く。14日には娘がロンドンへ来て合流するのだが、一緒にグラスゴーへ行った後、ロンドンへ戻って来てからの宿をまだ決めていない。ファミリー・ルームの料金を2軒ほどに聞いて回る。
 K君に、古本屋で時間を潰してもらい、こちらはインターネット屋でメールチェックなどをする。それから、郵便局に立ち寄ってから、角のカフェでパスタとフィッシュ&チップスの昼食をとる。食後しばらく休んでから、そのまま徒歩でトテナム・コート・ロードまで行き、コード類を調達した。
 トテナム・コート・ロードの駅前の劇場ではクイーンの曲をミュージカルにした「ウィー・ウィル・ロック・ユー」をやっていて、巨大なフレディ像が劇場前に聳えている。どうやらアバの曲を使った「ママ・ミーア」くらいから、70年代のヒット曲をフィーチャーしたミュージカルが、けっこういろいろあるようで、地下鉄の中の宣伝ではロッド・スチュワートものの「トゥナイツ・ザ・ナイト」なんていうのもあるらしい。
 そこから地下鉄を乗り継いで、ブリックストンへ行く。少なくとも昼間は、何ということはない普通の街である。市場を歩いてみたのだが、「エレクトリック・アヴェニュー」といのが実在する地名だというのは初めて知った。でも名前とは違って電気街ではなく、食品や雑貨中心の日常的な市場であった。そのまま、有名なナイトクラブ「フリッジ」の前まで行った。アングリカンの教会があるのだが、その入り口に掲げられた案内に添えられていたのが、黒人の天使の絵だったのが目を引いた。
 「フリッジ」の前からバスに乗り、ヴォホールまで移動した。ここから少し歩いてテムズ川沿いに出て、バタシー発電所を遠望できるポイントへ行く。ピンクフロイドの豚は当然空に浮かんではないが、上空を通る飛行機が煙突の間の空間に納まるように見える瞬間があり、なかなか面白く感じた。河畔のベンチで一服した後、バスでヴォホールまでもどり、そこから地下鉄でヴィクトリアへ向かった。
 ヴィクトリアでは、途中で飲み物(ジンジャー・ビアとグレープフルーツ・ジュース)を買って、飲みながら長距離バスのターミナルまで歩いた。ここでは、いつものように待たされはしたが、無事、グラスゴー往復のチケットを手に入れた。C1に乗って、終点のハイストリート=ケンジントンまで、しばし眠った。宿に近いケンジントン=オリンピアまで、ゆっくり歩くことにしたのだが、途中で、スティッキー・フィンガーズの位置を確認した。ここには数日中に来ることにしよう。さらに、歩いて食料品店を探したのだが、あるのはイラン系の店ばかりである。そのまま宿に近いバス停を通り過ぎ、オリンピア(大きなコンベンション会場)の先まで行ってスーパーマーケットに入った。ところがここもイラン系の店だった。結局ここで、食料品を少し買い込み、バスで宿までもどった。
 部屋に戻り、風呂にゆっくり入った。いろいろ食料はあるのだが、牛乳を飲んだだけでかなり満腹感を感じ、そのまま眠ってしまった。
■ 2004/08/11 (Wed)
商店街いろいろ

London (Chelsea, Portobello, Shepherd's Bush)
London:
Holland Court Hotel
 未明の3時過ぎに一度起きるが、少しパソコンをいじり、眠くなったのでベッドに戻る。朝は7時半頃に起きて、朝食へ行く。
 朝食後は、昨日、読み込んだメールを整理し、返事を書いたりする。10時頃宿を出て、K君の希望でキングズ・ロード方面の見物に出かける。バスでハイストリート=ケンジントンまで行き、スローン・スクエアで降りて、キングズ・ロードを歩く。チェルシーは、テムズ川沿いにカーライル博物館へ出かけたことしかなかったので、キングズ・ロードを(それと意識して)歩くのは初めてのような気がする。
 途中で南側に入り、チェルシーの住宅街の中を、『サージャント・ペパーズ』の写真撮影をしたスタジオや、ボブ・ゲルドフの旧宅、等々をK君のガイドブックに沿って「巡礼」する。途中でカーライル博物館の前も通ったが、開館が平日は午後2時から5時の間だけなので、当然閉っていた。あちこちうろついた後、キングズ・ロードに戻り、キングズ・ロードが鉤の手状になっている辺り(ワールズ・エンド)で、古本屋を冷やかす。マルコム・マクラーレンの店があった跡にあるブティック前には、日本人の観光客らが多数集まっていた。そのままエディス・グローヴのミック・ジャガーたちが共同生活をしていた家を見に行き、「巡礼」を締めくくる。
 歩いてワールズ・エンドまで戻り、そこからバスで来る時に南に入った辺りまで戻り、「ピザ・エクスプレス」に入って昼食にする。この店の建物は、元は有名なバレリーナのバレー教室があったところだそうで(ブループラークあり)、ゲートに女神像やら鷲やらがごてごてついていたりして面白い造りなのだが、1960年代末には、エリック・クラプトンがこの建物の一部を借りて住んでいたらしい。とりあえず、キッチンカウンター前の席だったので、大忙しで動き回るピザ職人の動きを見て楽しむ。2人の職人が物凄く忙しく動いているのだが、特に手前にいた方が、手際よく、しかも微笑みを浮かべながら作業しているのに感心した。
 午後1時半頃に、店を出て、ポートベロへ行ってみようということになった。バスに乗ってスローン・スクエアで降りればよかったのだが、地下鉄の路線図が頭に入っていなかったので、ナイツブリッジまで行ってしまった。K君に見物してもらうために、ハロッズの中を少し歩く。
 気を取り直して、地下鉄に乗りグロスター・ロードで乗り換えてノッティング・ヒル・ゲイトで降り、ポートベロへ向かう。平日なので骨董屋はほとんどやっていない。しかし、日用品の店は営業しているし、屋台も少しは出ている。ただし、ウェストロード沿いのテントの下は何もやっていなかった。オックスファムの本屋で古いロンドンのガイドブックなどを買う。JCBが使えるというので、思わずわざわざ使ってしまった。
 宿に戻るため、ラドブローク・グローヴから地下鉄(といってもこの区間はずっと高架)でハマースミスに出ようと思ったのだが、シェパーズ・ブッシュとゴールドホーク・ロードの間のマーケットが目に入ったので、ゴールドホーク・ロードで降りて、「ニュー・シェパーズ・ブッシュ・マーケット」を通り抜ける。ここはアラブ系の人々が多い。黒装束の女性の買い物客がたくさんいる。マーケットの靴屋で、10ポンドの靴を買う。日本から履いて来たオーストラリア製のブーツの底が剥がれて来たので、代わりにするのだ。
 マーケットを抜けて、地下鉄のシェパーズ・ブッシュからバスに乗り、ナショナル・レールのシェパーズ・ブッシュ駅で降り、セイフウェイが入っているショッピングセンターを見つけて入る。夕食の食料などを買って、ホランド・ロードとホランド・パーク・アヴェニューのラウンドアバウトまで行き、そこからバスに乗って、宿の近くまで行き、最後は少し歩いて宿に戻った。
 まだ6時前で、最初はひと休みしてまたでかけようかなどと思っていたのだが、日記をつけたりしているうちに眠くなってしまい、ずいぶん早いうちに寝てしまった。
■ 2004/08/12 (Thu)
アビー・ロード「巡礼」

London (Russel Square, New Cross, London Bridge City, St.John's Wood)
London:
Holland Court Hotel
 前夜、8時前に眠ってしまったせいか、まだ夜中のうちに寝苦しくなり、結局、午前5時過ぎに起床した。しばらくパソコンに向かう。そのまま8時前に朝食に行く。
 10時前に宿を出て、10番バスでグージ・ストリートまで行く。10日に見に行ったつもりだった「巡礼」先の一つ(クラッシュのレコーディング・スタジオの跡地)が、ストリート名の間違いで違うところだったとK君が気付いたので、改めて現地を確認しに行くのが目的だった。無事、正しい場所を確認した後、バスで少し戻り、大英博物館周辺で、ジョージ・ハリソンがクリシュナ寺院を設けようとした建物の場所を確認してから、大英博物館に入る。ここで、K君に時間を潰してもらい、その間にこちらはいつものインターネット屋「サイバーゲイト」へ行く。メールを読み込み、少しウェブ閲覧をする。
 その後、近くの雑貨屋で電話カードを買ったのだが、インド系と思しき店主が「どのカードがいいのか?」ときくので「英国内のモバイル宛が安いもの」と答えると、表にあるポスターを見て自分で銘柄を選べといわれた。そこで表に出ると4種類ほどポスターが貼ってある。そのうち一つを選んで注文すると、店主はカードの束を4つほど持って来て、トランプを選り分けるように、一枚一枚探しはじめた。見ていると、実に多様なデザイン(おそらく銘柄が違う)がゴチャゴチャに混じっている。結局すべての束を見た上で「そのカードはない、何にする?」ときた。少々呆れながら、再度外に出て別のを選ぶと、あっさりカードが出て来た。さっそく公衆電話で電話をかけ、用件を一つ済ませる。

『サパタ万歳!』味はイマイチだが名前で許す!
 K君との約束の時刻より小一時間早く大英博物館に戻り、図書室西側の土産物屋でカード類を見ていたら、何とK君が声をかけてきた。結果的に時間が節約できたことになる。(よく考えたらホルボーンの方が近かったはずだが)トテナム・コート・ロードまで歩き、バンクまで行って一区間だけドックランド線に乗り、シャドウエルでイーストロンドン線に乗り換えて、ニュー・クロスで降りた。ところが、ニュー・クロス・ゲイトで降りた時の感覚になって、駅から出て東行きのバスに乗ってしまい、そのままデプトフォード・ブリッジの先まで来てしまう。勘違いに気付いてバスを降り、逆方向のバスに乗り直してニュー・クロスで降りた。ゴールドスミス・コレッジを「巡礼」して、大学前のメキシコ料理屋「ビバ・サパタ!」(映画の邦題としては『革命児サパタ』:いずれにせよ、レストランの名前としては凄い)で昼食にする。ナッチョスとチミチャンガを食べる。
 ゆっくり昼食をとってから、セント・ポール行きのバスが来たので、そのまま終点まで乗っていく。サザーク辺りもいろいろ再開発があったようだ。エレファント&カースルの前も通ったが、<バーミンガムのブルリングは再開発前はこんな感じだったのかな>などと思った。セント・ポールは正面が改修中で、それを覆うシートにはクリストファー・レンの図面の絵が、建物の実物大で描かれていた。こういう風になります、というわけだ。
 バスの終点で降り、地下鉄を一駅乗ってバンクで乗り換え、さらに一駅乗ってロンドン・ブリッジで降りる。例によって、ロンドン・ダンジョンに並ぶ人たちの大行列ができている。ゴチ系の案内嬢が行列を整えていた。そのまま大行列を横目に、市役所へ向かう。市役所では報告書類を少し入手し、さらにパンフレット類の一覧を手に入れた。オリンピック招致に関しては、まだ始まったばかりでパンフレット類はないということだった。

「あの横断歩道」に群れる日本人観光客
 これで一通り、今日やろうとしていたことは済んでしまったのだが、まだ時間に余裕があるのでアビー・ロードのあるセント・ジョンズ・ウッドへ行こうということになり、ロンドン・ブリッジからジュビリー線で直行する。地下鉄駅を降り、案内図に従って有名な横断歩道とスタジオを眺めに行く。夏休みなので日本人の若者が人だかりになっていて、例の横断歩道でポーズをとって写真をとっている。ところがアビー・ロードはバスも通るような道で、交通量も結構あるので、これがなかなか危なっかしいのである。まあ屈託がないといえば屈託がないのだが、いろいろな意味で実に危ういと感じた。
 とはいえ、こちらも日本人観光客なので、地下鉄駅のアビー・ロード・カフェで土産物を買い、一服してからバスで町中へ戻った。バスの終点のヴィクトリア駅で降りて、定宿のあるエビュリー・ストリート当たりのホテルに、再来週の予約の可否をきいて回る。一通り情報収集は出来たので、少し歩いてC1に乗り、スローン・スクエアで地下鉄に乗り換えてハイストリート=ケンジントンまで行き、再度バスに乗って宿に戻った。
 部屋では、しばらくテレビを見た。5チャンネルでカラバッジオの「蜥蜴に噛まれた少年」を題材にした美術番組などを見てから、ゆっくり風呂に入った。今日も疲れているようで、8時過ぎには眠りについた。
■ 2004/08/13 (Fri)
カムデンでショッピング
London (Camden Market)
London:
Holland Court Hotel
 今朝も寝苦しくて5時過ぎに目が醒めた。トイレに立って、しばらくパソコンをいじってから、ベッドに戻り、7時半過ぎに起きた。朝食後、9時過ぎに宿を出て、バスをナイツブリッジで乗り継いで、エビュリー・ストリートへ行き、ロウズディーンとリントンで、部屋を予約する。少々変則的だが、23日と26日にロウズディーン、24日と25日にリントンに泊まることになった。ロウズディーンでは1泊分の現金前払いを要求され、持ち合わせがなかったのでK君に50ポンドを借りた。
 次にヴィクトリア線でキングズ・クロス=セント・パンクラスまで行き、サイバーゲイトでメールチェックをした後、セント・アーサンズで21日と22日の予約を入れる。これで、帰国までのすべての宿の予約が済んだことになる。連れがいて普段と勝手が違うとはいえ、向こう2週間の宿が決まっているというのは海外旅行ではなかなかないことだ。
 ラッセル・スクエアからピカデリー・サーカスに移動し、この辺りにあったはずのアメックスを探したのだが、見つからないままオックスフォード・サーカスまで来てしまう。しかたなく、そのままカムデンの市場に向かうことにして、ヴィクトリア線からウォレン・ストリートで乗り換えてカムデン・タウンへ行く。K君と一緒に隅から隅まで見て回る。途中の橋のところで、たまたま運河の閘門の開閉作業を一部始終見物することができた。市場でK君は皮のネクタイや、ジャケットなどを買っていた。こちらも英国軍の夏の半袖の戦闘服に「Jones」と名前の札が残っているのを見つけ2ポンドで買う。この市場は、やはり古着屋が面白い(値段は概して強気だが)。
 ひと回りしてカムデン・タウンの駅まで戻ってきたのだが、チョーク・ファーム操車場はどこだろうという話になり、27番バスの終点のチョーク・ファーム・セイフウェイまで行ってみる。明らかにこの辺りは近年になってから再開発されているので、この辺りではなかろうかと思いながら、セイフウェイでインスタント・スープや飲み物などを買う。ここが始発の27番バスは、宿の近くを通ってハマースミスまで行くので、帰りは2階の最前列の席に陣取って戻った。宿に着いたのは4時頃になっていた。
 部屋でスープを作り、ここ数日ついつい買って食べ残しているパンなどを食べ、午餐にする(もはや昼食とはいえない時刻だ)。食後、K君が電話をかけたいといので、散歩がてら外に出て、電話ボックスを見つけて電話をする。最初のボックスは音量が小さくて話ができず、もう一ケ所に移ってかけ直した。宿に戻ってから、テレビを見始める。久々に見る「カウントダウン」は<1997年の決勝戦の再現>という企画をやっていた。その後、K君には一人で出かけてもらい、そのままだらだらと「ウィーケスト・リンク」や「トップ・オヴ・ザ・ポップス」、ニュース番組などを見続ける。今日のクリケット(イングランド対西インド諸島のテストマッチ)は雨で順延になったようだ。
 その後しばらく、少し学会発表の下準備をする。2時間ほどしてK君が帰ってきた。また少し物を食べ、9時過ぎに寝込んでしまうが、夜中の12時頃に目が醒める。K君はずっと起きてパコソンをいじっていたようで、こちらも起き出して作業をした。最後は、風呂に入って、さらに日記を書き足し、ようやく午前3時近くに寝た。
■ 2004/08/14 (Sat)
娘が合流

London
National Express coach to Glasgow
 朝は7時半頃に目が覚めたが、自分もK君も前夜あまり寝ていなかったので、すぐには起きず、朝食へ行くのは8時半頃になった。週末になったせいか、朝食時に見かける客が急に多くなっている。これまで毎朝食事をとっていた隅の席は既に占領されていて、キッチンのすぐ前の席に座ったのだが、すぐに両隣りにも、向いにも、二人連れの客が来た。右隣の母娘、左隣のカップルとも、何語かよくわからない言葉で喋っているし、向いの男性二人は英語で喋ってはいるものの、一人はインド系だしもう一人のゴツイ白人は訛りが強い。これで給仕しているのはロシア人達なので、言語環境からいえばどこにいるのかわからないような不思議な世界だ。(追記:給仕をしていた女性たちは、ポーランド人だった可能性が高い。ポーランドのEU加盟後、出稼ぎが増えているそうだ。)
 今日は、チェックアウトをしなければいけない。結局、日本から予約したトリプルの料金で、総額450ポンド近くを支払うことになった。高い授業料だが、仕方がないといえば仕方がない。おそらく二度とここに泊まることはないだろう。
 夜まで宿に預けて置く荷物を残し、手荷物と、グラスゴーへ行っている間リントンに預ける荷物を持って、10時頃宿を出た。10番バスをナイツブリッジで降りそびれ、次で降りようとしたらハイド・パーク・コーナーまで行ってしまう。珍しく白人男性の車掌が乗っているバスで逆方向に戻り、ナイツブリッジからC1バスでエビューリー・ストリートへ行き、リントンに荷物を預ける。
 今日は空港に娘を迎えに行かなければいけない。まだ少し時間があるが、早めに空港まで行って昼食もしようということになり、ヴィクトリアから地下鉄に乗ろうとしたら、ディストリクト線とサークル線が止まっていて、大混雑状態になっている。結局、ホームに人が溢れていた北行きに乗るのを敬遠して、一駅だけピムリコまで南行きに乗り、そこで逆に乗り換えてグリーン・パークでピカデリー線に乗り換えた。こちらもずいぶん混んでいたが、ともかく正午過ぎには空港についてしまった。
 娘が乗ってくるVS901便は定刻は午後3時半到着だが、我々が来た時は1時間ほど到着が早かった。今日も到着は1時間ほど早まるようだ。アメックスで少し両替えをし、ターミナル3の中を一通り見て回ってから、到着ターミナルのカフェで昼食をとる。K君はカルポナーラ、こちらはポテトとつけ合わせをとる。
 2時頃、到着客が出てくるドアの近くに移動し、結局1時間ちょっと待って、ようやく娘が出てきた。娘は、とりあえず無事についたことを電話で家にかける。
 3人連れになって、ピカデリー線に乗りラッセル・スクエアに向かうが、途中で信号系のトラブルがある区間があり、そこを徐行したために、いつもより時間がかかった。「サイバーゲイト」に近い、先だって昼食をとった角のカフェで娘とK君に待ってもらい、「サイバーゲイト」で1時間ほど作業をする。作業が終わってから、カフェに戻り、再度移動する。目的地はハイストリート=ケンジントンなのだが、バスで中心部を見物しながらにしようと適当にバスに乗ったのだが、見当が少々くるってオルドリッチへ来てしまう。ここでまた適当に乗り換えて、トラファルガー広場で降り、土産物屋で娘用の絵葉書と切手を買う。もう6時を回っているので、ナショナル・ギャラリーなどは当然閉っている。ゆっくり見に来るのはまたにして、9番バスに乗り込む。
 そのまま9番バスで、ハイストリート=ケンジントンの一つ先で降り、元ローリング・ストーンズのべーシスト、ビル・ワイマンが経営する「スティッキー・フィンガーズ」に入る。簡単にいえば、ハード・ロック・カフェのストーンズ専門版といった感じの店だ。メニューもそんな感じで、前菜の盛り合わせ、ナッチョス、サラダ、ポテト、最後に大きなブラウニーをとって結構豪勢な夕食になる(勘定も結構いってしまった)。
 9時頃店を出て、バスで宿の近くまで行き、K君と娘にバス停で待っていて貰い、宿に預けた荷物を回収に行く。バス停に戻って3人でバスに乗ったが、来たのが27番だったので、ハイストリート=ケンジントンで降りて地下鉄に向かった。ところが、ちょっと路線のつながりを勘違いしていたのと、ディストリクト線の一部とサークル線が止まっているため、ちょっと変則的なルートをとることになった。動いているディストリクト線で一駅、アールズ・コートまでゆき、そこでピカデリー線に乗り換えてナイツブリッジで降り、そこからC1というルートである。時間が少々気になったが、無事10時前にヴィクトリアの長距離バス発着所に到着した。
 「スティッキー・フィンガーズ」で書いたハガキをここで投函し、2階バスの2階に乗車する。途中、一回、サービスエリアのトイレ休憩で下車したが、あとは眠ったり眠れなかったりを繰り返しているうちに朝になった。
■ 2004/08/15 (Sun)
いよいよ学会の登録日

Glasgow
Glasgow:
Toravelodge, Paisley Street - Glasgow
 朝7時少し前にグラスゴーに到着。そのままバス・ターミナルでしばらく休んでから、15分くらい歩いて中央駅へ行く。ここでまた30分ほど休んで番地を頼りに探して歩いたのだが、30分以上歩いてもそれらしい場所にたどり着かない。しかも、間違いなくここにあるはずだという通りの名が、いよいよ別の名前になってしまった。明らかに間違っている。仕方なく、K君と娘に、その場にあったバス停留所で荷物とともに待っていてもらうことにして、ホテルを一人で探しに行く。ロンドンと違って番地を明記している家が少ないのでかなり苦労したのだが、結局、そこまで来る途中にあったレストランの背後に、宿舎のトラべロッジがあることがわかった。来た時には看板が目立たない角度だったのだが、逆方向から近付いて、すぐにそれと分かった。それから二人の待つバス停まで戻り、ようやく宿についたのはもう9時を回る頃だった。
 宿の部屋はまだ用意できていないので、とりあえず、荷物を物置きに置かせてもらい、目の前のレストランに朝食をとりに行く。3人とも、かなりのボリュームを平らげた。朝食後、再度市街地の中心部まで歩いて行き、ツーリスト・インフォメーションで交通関係の情報を仕入れる。そこで、バスの週間パスの使い方を教えてもらい、グラスゴー・ファーストのバスに乗ってパス券を買う。それから大会会場のSECCへ向かったのだが、最初は降りるべきところを見落として、改装中(閉館中)の美術館まで行ってしまった。折り返してイグジビジョン駅近くで下車し、歩いてSECCに到着した。
 既に午後0時半頃になっていたのだが、受付開始は午後2時からだという。コンコースのカフェで飲み物を買い、娘はチョコレート・クロワッサンを食べながら、受付開始を待った。コンコースに置かれたチラシ類をネタにして、K君といろいろ雑談に花が咲く。
 そのまま午後2時過ぎに登録受付をしてもらい、コンファレンス・バッグを手に入れた。既に会場には、K先生、U先生がお出でになっていた。U先生はプレコングレスの巡検でアイルランドへ行ってきたのだそうだ。手続を終えて、K君と娘が待っているコーナーに戻ろうとすると、むこうからD君一家がやって来た。気楽に声をかけたら、何やら荷物が行方不明になって大変なことになっているらしい。家族連れの時に、そんなことが起こるとは、さぞかし気苦労が多いことだろう。
 手続を終えて、組織委員会の担当者に少し質問などをしてから、連れの二人と宿に戻ることにした。3時には部屋が用意できているはずなので、ちょうどいいタイミングである。歩道橋を歩いて川を渡り、科学館の前のバス停でバスを待った。日曜日は、平日の半分くらいしかバスの運行本数がないそうだが、ほどなくバスが来て宿に向かった。ところが、宿より少し離れたところでバスは別方向にまがってしまった。ボタンを推して、次のバス停で下車したが、結構変な場所に出てしまい、抜け道のようになっている所を通って、宿に裏側からたどり着いた。
 宿には午後3時ちょうどに到着した。部屋は禁煙マークのついた210号室になる。3人用の部屋といっても、ダブルベッドとソファがあるだけなので、3人目は床で寝るか、ソファのクッションを外して寝なければならない。とりあえず、荷物を置いて、ソファをばらして3つ寝床を作り、1時間少し全員で仮眠する。
 午後4時を回ってから目が醒めたのだが、娘は熟睡している。飛行機と夜行バスが続いたから仕方ない。いったん起こして、部屋から出ないように言い聞かせ、K君と中心部へ出かけた。再びツーリスト・インフォメーションへ行き、インターネット・カフェの場所を尋ねたが、3ケ所しか電話帳に載っていないという。そのうち2ケ所は昼前に市内を歩いた時に見かけたので飛び込んで、ラップトップはつなげないことを確かめたところだった。残りの1ケ所へ行ってみたのだが、結局、そこは建物自体がシャッターを下ろしていた。日曜日の5時を回っているから仕方ないと言えば、仕方ない。隣のマークス&スペンサーがまだ開いていたので、下着と靴下に、夕食用の食べ物と飲み物を買う。
 バスで宿まで戻り、買い物を置いてから、再度K君と、宿の向い側にある共同駐車場を中心にしたパワーセンター様のものの中身を確かめに行く。実はスーパーがないかと少し期待していたのだが、ここはレストラン数軒のほかは、ゲームセンター(というよりカジノに近いもの)、映画館、そしてボーリング場が集まっている、娯楽センターであることが分かった。川岸からは、筋向かいにSECCが眺められたが、川沿いには道がないことも分かった。
 部屋に戻って、いよいよ作業を始めようとしたのだが、ついついテレビを見てしまう。第二次世界大戦、イタリア戦線のモンテ・カシノ攻防戦の話に見入ってしまった。ところが、テレビに夢中になっている時、K君がパソコンを繋ごうとしてコンセントを繋いでスイッチを入れたとたん、凄い音がしてニューズが飛んでしまった。とりあえず他の部屋には影響しなかったようだが、部屋の中は電気が全滅になってしまった。レセプションに事情を説明すると、とりあえず部屋を移るように指示され、186号室に移動した。娘は移動後すぐにまた眠り続け、K君もじきに休んでしまったので、部屋を暗くし、一人でパソコンに向かう。そのまま深夜1時頃まで作業を続ける。発表の原稿は何とか方向が見えて来た。ちなみに、発表のOHPシートは手書きで作成せざるを得ないのだが、こちらは明日やることにする。
 ゆっくり風呂に入り、午前2時頃に横になる。
■ 2004/08/16 (Mon)
学会発表が始まる

Glasgow
Glasgow:
Toravelodge, Paisley Street - Glasgow
 6時前に起きて、しばらくパソコンに向かう。ところが、自分の発表の文章に少し手を入れようとして、給電がされていないことに気付いた。どうやら変圧器がいかれたらしい。いろいろバタバタしているうちに、ともかく大会会場へ行くべき時間になった。会場で展示スペースに用意された日本のブースへ行くと、恩師のT先生御夫妻はじめ、いろいろな先生方が集まっていた。開会式で会長演説が終わり、次の記念講演がもうすぐ始まるということだったが、あまり関心のない分野のテーマだったのでオーディトリアムには行かず、展示ブース周辺で情報交換に専念した。
 最初にのぞいたセッションは、午後2時からの観光地理のセッションで、最初の発表は聞き逃したが、2番目の広島大学に勤めているドイツ人F先生による宮島についての報告、カリブ海方面への英国からのパッケージ・ツアーの話、人口一人当りのゴルフ場の数が世界一というニュージーランドにおけるゴルフ場開発の話などを聞く。引き続き、同じ会場で、旧知のオーストラリア人M氏の報告を聞き、そこで会場を移り、ラッツェル没後百年をふまえた地理思想のセッションを途中から聞きに行く。米国とフランスの研究者によってそれぞれの報告があったが、いずれもラッツェルのドイツ語原典がいかに読まれていないか、という話を強調していた。皆、読みもしないで語っているという訳だ。こちらの会場では、直前の時間帯にマッキンダーの回顧をテーマとしてセッションを組んでいたようだが、それを踏まえて「どうして(マッキンダーの場合と対照的に)ラッツェルを論じる際には、その立場を擁護する、言い訳のような言い回しが必ずついてくるのか?」という鋭い質問が出ていた。
 午後5時に先ほどのM氏や、M氏との共著もあるB氏、そしてカナダ人のB先生ら、オーストラリア人、カナダ人のグループに合流して、M氏の案内で、歩いてグラスゴー大学方面へ向かった。途中でパブに立ち寄ってひと休みしてから、大学に近い「ボシイ」という店で一緒に夕食をとる。サーモンの料理をとったのだが、なかなか美味しい。
 夕食後は、大学の寮にと待っているM氏や、会場近くのホテルにいる他のメンバーと、美術館前で分かれ、バスに乗って中心部に戻り、さらに宿へと向かった。
 部屋に戻って聞いてみると、娘はずっと調子が悪くて昼前に少し買い物に行ったきり、部屋で寝ていたのだという。K君は、ずっと娘と一緒にいてくれた。
 夜は、K君のウィンドウズ機を借りて、発表原稿に手を入れ続ける。最後はどうにも眠たくなり、娘が占領しているダブルベッドの娘が寝ていない部分に横になって少し眠った。
■ 2004/08/17 (Tue)
学会三昧の長い一日

Glasgow
Glasgow:
Toravelodge, Paisley Street - Glasgow
 朝、6時前に起床し、7時半からの今回の一番の目的である「情報社会の地理」のセッションに向かおうとしたのだが、自分の発表の文章に少し手を入れようとして、K君のウィンドウズ機をいじっているうちに意外に時間が経ってしまい、7時20分を回ってからようやく宿を出た。
 朝一番の発表は聞き逃したが、幸い二番目になっていた、iMode による地域情報について検討したA先生の発表には間に合った。そのままて、セッションを聞き続け、コミュニケーション手段と交通手段の補完関係を論じたドイツの研究者の発表と、この研究グループのまとめ役であり、このセッションの座長でもあるイスラエルのK先生の発表を聞く。この二つの発表は、少々抽象度が高かったせいか、なかなか集中して理解できなかった。
 「情報社会」セッションは丸一日続くのだが、次の時間は飛ばして、展示スペースへ行き、資料をいろいろ集めたり、日本の展示ブースでいろいろな人と立ち話をする。IGU関係の会議は、今後、2006年がブリスベン(オーストラリア)、08年がチュニジアとなるらしい。10年はよく判らないが、12年は北京とサンチャゴが名乗りを上げていて、どうやら北京に決まるらしい。
 10時に展示ブースふるまわれるお茶を飲んでから、10時半開始のセッションに戻る。インターネットによる通信販売の話を集めたこのセッションは、座長が2000年の共同調査の際にお世話になったソウル大学のH先生だった。最初はオランダの報告、次は旧知のH氏のiModeを介した小売りの話、最後がH先生の韓国の話だった。H先生の報告に質問をしたのだが、少々噛み合わず、これはちょっと失敗だった。
 昼食は、A先生とH氏、そして以前A先生の所に留学していた韓国人のL氏と一緒に、SECC内のレストランで魚料理を食べる。食後は、A先生とH氏と一緒に少し展示スペースへ行き、談笑する。
 午後、最初のセッションは、「情報社会」セッションの部屋に荷物を置いたまま、英国地理学協会(RGS-IBG)主催の「歴史地理」のセッションへ行き、いずれも若手の女性が発表者だった3本の報告を聞く。両大戦間期のキャラバン(オートキャンプ)の流行をめぐる言説分析、第一次大戦期の米国で軍隊の駐屯地周辺の地域コミュニティが展開したコミュニティ・サービスの再解釈、現代の英国における薬物使用をめぐる社会的言説の空間的構成と、いずれも興味深く、具体的で(少なくとも骨子は)分かりやすい、いい発表だった(予告されていたもう1本の報告=グラフィティの話=は時間が変更になったということで聞けなかった)。
 次の時間帯は、「情報地理」に戻り、A先生が座長で行われた4本の報告を聞く。最初のフィンランドの話は、論旨がよくつかめなかった。ボローニャの地域情報ポータル・サイトの構築過程の話、ミュンヘンの旧空港跡地の再開発と地域情報サイトの連動という話は、それぞれ具体的で分かりやすかった。最後のG先生による、ドイツの電子新聞(地方紙)の話は、知らないことが多かったので、おそらくは発表の意図とは少し別の所で、大いに勉強になった。引き続き、5時からの今日最後のセッションは、G先生の司会で進行した。当初、3名の予定が、最後に配当されていた報告者が欠席となったために、韓国のL女史と私だけになってしまった。ところが、韓国のインターネット・インフラについてのL女史の報告が時間を大幅に超過したせいもあってか、自分の発表になると、G先生の時間の指示が結構厳しくて、あっという間に時間がなくなり(事前の予行演習では時間内に十分納まっていたのだが)、尻切れとんぼの報告になってしまった。
 この最後のセッションの最後の時間を使って、ビジネス・ミーティングがあり、来年度の関連集会がイタリアのナポリなどで実施されることがアナウンスされた。時期が6月末なので、やはりちょっと参加しにくいが、何とかなればよいと思う。2006年のブリスベン大会の際には、プレコングレス・ミーティングをシドニーで行うということになった。本大会と合わせて6月下旬から10日ほどの日程になる。
 ともかく、自分の発表も終わり本当にほっとした。この研究グループの恒例で、この後、恒常的なメンバー全員で夕食をとりに、中心部のジョージ・スクエアに面したミレニアム・ホテルのレストランに行く。案内役になった地元のW氏に、タクシーの中でアップルの店はグラスゴーにないのかとたずねてみたら、実はつい数日前にマックを買ったばかりだということで、話がはずんだ。
 結局、会食に参加したのは、普段は恒常的なメンバーではないが案内役で来た英国人が2人、あとは、ドイツ人が2人、フランス、オランダ、イタリア、スウェーデン、イスラエルから1人ずつと、欧州系のメンバーが9人で、これに日本人3人(A先生、H氏、私)と韓国人のH先生で13名である。恒常的なメンバーとしては、英米系が来ていなかったことになる。IGUらしいといえばそれらしいが、それにしても少々極端な感じもする。いずれにせよ、例によって(?)日本人3人は席につく時にのんびりして出遅れたせいもあり、長いテーブルの端に固まって座ることとなった(好ましいとは言えないのだが)。
 食事はメインをリゾットにしてメニューを選んだ。デザートのトライフル(ジェリー)もなかなかよかった。最初は食後に、パブへ行こうかという話をA先生としてたのだが、会食が結構ゆっくりで既に10時を回ってしまったこともあり、その話はお流れになった。しかし、W氏から、アップルの店である「スコットシス」の場所と、お薦めのパブの場所を教えてもらった。
 部屋に戻って、2人に話を聞くと、一緒に市内へ出て買い物をしてきた後、娘は午後は体調が悪くて部屋に立てこもっていたそうで、その間にK君は博物館や大聖堂を回って来たという。風呂に入り、ほっとしたところで、そのままダブルベッドを占領して寝る。娘が来てから、まともにベッドで寝たのは初めてだった。
■ 2004/08/18 (Wed)
リラックスした一日

Glasgow
Glasgow:
Toravelodge, Paisley Street - Glasgow
 朝は何度が目が醒めたり、トイレに起きたりしたが、ともかく疲れをとろうと、すぐにベッドに戻って横になる。8時頃にはみんな起きていたので、一緒に部屋を出ることにして、9時過ぎにSECCに向かう。
 SECCのカフェで、娘とK君の二人に朝食をとってもらい、その間に、地理教育のセッションへ行き、英国の地理院が取り組んでいる、小学生に2万5千分の1地形図を無料で配付するプログラムについて、評価アンケートの結果などを分析した報告を聞く。
 さらに聞きたいセッションがあったので、二人には1時間半待ってもらうことにし、カフェに戻って昼休みまで時間を潰して待っているように言う。それから、グラスゴー大学関係者の報告が並んだ「スコットランドのアイデンティティ」を論じる文化地理のセッションに行く。ここは、90分じっくり勉強した感じになった。
 昼休みに入り、展示スペースの方を眺めに行くと、S先生と院生たちがいたので、一緒に昼食をとりに行くことになり、カフェ近くのコンコースにいた娘とK君も一緒に、エキシビション・センター駅の北側まで行き、アーガイル・ストリートのパブで昼食をとる。バターフライのフィッシュ&チップスと紅茶をとった。一足はやく、S先生たちが先に会場に戻った後、少しゆっくりしていたら、N君とO先生が店に来ていて、少し話をする。2人は既にニュー・ラナークを見てきたということで、少し情報を教えてもらう。

マック屋『スコットシス』
 昼食を終えて、パブの向いにあるコンピュータ関係の大型店に入ったのだが、マックを扱ってはいるものの、パーツは扱っていないといわれ、やはり「スコットシスへ行け」と言われる。気を取り直し、バスを乗り継いで、何とかグレート・ウェスタン・ロードのはずれにあるスコットシスにたどり着いた。すぐに求めていたものが出てきたが、値段は49ポンド90ペンスと決して安くはなかった(当たり前だが)。ともかくこれで、またパソコンで仕事ができる。正直随分ほっとした。
 いったんホテルに戻ることにして、スコットシスの前からバスに乗ることにしたのだが、バス停で待っている間に急に雨が降り出し、66番バスに乗ってすぐに、とんでもなく激しい雨になった。空はまだら模様で、陽は差しているのだが、大粒の雨が土砂降りになっている。十分あまり、そんな感じが続いたら、何とバスが雨漏りしてきて、背中に水滴が落ちて来た。バスの雨漏りというのは生まれて初めての経験かもしれない。レンフィールド・ストリートで乗り換えて、ホテルに戻り、さっそくパソコンに充電をする。
 しばらく休んでから、後で6時過ぎにSECCで合流することにして、4時少し前に娘とK君が先に出て、市内へ向かった。1人になってから、風呂に入り、少し洗濯をして、5時少し前に宿を出てSECCに向かった。都市地理のセッションで予定されていたケルンの話を聞こうと思って、会場に向かったのだが、SECCではなく、隣のモートハウス・ハウス・ホテルの部屋が配当されていて、このホテル分の平面図がないために、会場を見つけるのに手間どった。ようやくたどり着いたら、会場が変更になったことを告げるお知らせが貼り出してあった。今度はやはりホテルの中の変更先の会場を探し、何とか見つけたのだが、何とその時間帯の都市地理のセッション自体がキャンセルになったという別の張り紙が出ているではないか。少々呆れて、東ドイツの都市についての報告が行われているはずの別の会場へ行くことにして、SECCに戻った。ところが、まだ時間枠の終了まで時間が十分あるはずなのに、その会場はもう今日の発表が全て終わっていた。結局、一つも発表は聞けなかったが、展示スペースで、ロンドン・ドックランドの航空写真のジグソーなどを買い、さらに王立スコットランド地理学協会のブースでしばらく話し込んだ。
 6時過ぎに、娘とK君が戻ってきたので、食事をしに大学のウェスト・エンドへ出かける。まず、チラシに宣伝があった「ソリッド・ロック・カフェ」に行くが、ここはただのパブという感じで、食事も昼時しかないようだったので、しばらく一服するだけで店を出た。そのまま歩いて先日食事をした「ボシィ」の辺りを回り(近くに「シンク・マック」というマックの修理屋があったのにちょっと驚いた)、さらにその先のヒルトン・ホテルの所まで行くが、時間が既に8時近くになっていて、手ごろな所が見つからない。先に、買い物をすることにして、セイフウェイで飲み物などを買う。
 結局、セイフウェイからバーズ・ロードを少し戻ったところにある、手狭だがモダンな感じの「アンティパスティ」というカフェ・レストランで食事をする。運良く予約なしですぐに座れたのだが、少し遅れてきた人たちは結構待たされていたから、運がよかったのだろう。ピザ、ラザニヤ、ペンネ・アラビアータ、シーザー・サラダと焼き魚をとり、満腹になるまで食べた。残ったピザとラザニアは持ち帰る。
 店の近くのバス停から帰ろうとすると、ちょうど89番バスがやって来た。雨が降り始めていたので、大回りになるのを承知でこれに乗り、クライド・トンネルを初めて通過し、けっこう長い距離を住宅街を中心に回った。途中、バスがゴーヴァンでしばらく停車して時間調整をしたので、停留所の場所の事を運転手に確認したのだが、若い運転手はちょうど煙草に火をつけようとしている所だった。そのまま席に戻ったが、彼はゆっくり一服してから再度バスを発車させた。もちろん乗客は車中禁煙である。
 バスがボンベイ・シネマの停留所を過ぎて、ペイズリー・ロードに入ったところでボタンを推し、周りに商店などがない、住宅地の停留所に降りる。しばらく待ってからやってきた56番のバスで宿まで戻った。既に10時近くになっていた。部屋に戻ってから、しばらくパソコンに向かう。娘はソファの下のベッドで、ジグソーを始める。そのまま12時近くまで作業をしていたのだが、眠くなってきたのでベッドを占領してそのまま寝込んでしまう。
■ 2004/08/19 (Thu)
ニュー・ラナークへ

Glasgow
Glasgow:
Toravelodge, Paisley Street - Glasgow
 朝は6時頃に起き、7時半からの地理教育のセッションに出る。地理学者の子供が地理学者になりやすいという傾向は本当にあるのか、という問題提起が面白かった。そのほか、ロシアの生徒の英国イメージについての調査結果報告(内容は平板というか、手法に疑問も感じたりした)、留学生を対象としたデジタル化されたシラバスの開発の話を聞いた。9時過ぎに会場を出て、宿に戻り、10時半頃には雨の中を三人で宿を出て、ニュー・ラナークへ向かう。

ラナーク駅に到着

ニューラナーク:クライド川の眺め
 バスでセントラル駅へ行き、電車、バス、入場料がセットになった券を買い、地下の14番線から出る電車で、ラナーク行きに乗った。1時間ほどで終点のラナークに到着したが、ニューラナークまでのバスが1時間に一本ということで、次のバスまで30分ほどの時間に、インフォメーションの並びにあったフィッシュ&チップス中心のレストランで昼食をとる。バスは小さく、運転手は地元の人で、乗客のほとんどが顔見知りらしく、ほとんどの客に声をかけ、話をして乗せて(下ろして)いくのだが、方言がきつくて何と言っているのかほとんどわからない。英語だと思わずに音の感じだけ聞いていたら、ゲルマン系かスラブ系の言語のようにさえ聞こえる。20分ほどでニュー・ラナークに到着した。
 断続的に強くなりながら、雨が降り続いているので、川沿いに森を少し歩くコースは断念して、屋内展示を一通り見て回る。いろいろ見た中で、一番印象に残ったのは、1960年代末の紡績工場の操業停止以降、荒廃していた頃の写真と、現在のような形への復元作業についての展示だった。もちろん、オーエンという、ある意味では極めて奇矯な人物について、断片的だった知識が具体的にいろいろつながったというのも、嬉しかった。ここでも、動態保存、技術保存の考え方が十二分に活かされていることも印象に強く残った。また、かつての労働者住宅の建物の一部が、外見は残しつつ現在も一般の住居として提供され、ここに住んでいる人たちがいるというのにも感心した。あちこち回っているうちに、オーストラリアのM氏にばったり出合った。一人で見に来たのだという。帰りはバスに乗らずに駅まで歩くのだそうだ(けっこうな登り坂のはず)。こちらは結局、終バスの4時45分のバスに乗って、ニュー・ラナークを後にした。バスは来た時と違っていたが、なぜか運転手は同じ人物で、時間になって発車させてからもしばらくお茶?を飲みながら坂道を上り、そのまま乗降口を開けっ放しで駅まで走りとおした。
 駅には電車が停車していたが、ラナークで夕食にすることにして、駅から少し坂を下る。途中のパブに入り、ここで食事ができないかと聞いてみたが(入り口の看板に「グッド・フーズ」とあったのに)食事は出せないといわれてしまう。そこでお勧めのレストランはあるかと聞いてみると、常連らしき3人ほどが口々にいろいろいうのだが、これがさっぱり聞き取れない。一人が店の入り口の外まで出て、この先の右手の道にある「××(聞き取れない)××スプーン」か、その先のホープ・ストリートを右に入った「××××」がいい。と丁寧に???教えてくれた。とにかくその指示のままに行くと、まず「ウェザースポーン」という店があり、その先にホープ・ストリートがあった。この通りは、レストランがあるような感じではなく、右手に図書館、左手に教会があって、あとは住宅ばかりのように見える。ともかく進んでいくと、教会の先に「クラウン・タバーン」という、雰囲気の良さそうな店があった。入ってみると、まだ6時少し前で、20分ほど食事まで待ってくれと言われ、それまでバーで飲み物をとりながら待つことになった。おもちゃの(サイズが小さい)玉突き台があって、時間潰しにしばらく遊ぶ。夕食は、オニオン・スープが美味しく、娘はお代りをした。ステーキ、サーモンとシュリンプ、サラダ、などなど、また食べきれないほどになり、少し持ち帰る。
 帰路の電車では熟睡し、セントラルの一つ前に駅であるアーガイル・ストリートの少し手前まで寝ていた。宿には8時過ぎに戻った。
 明日はもう撤収しなければならないので、部屋に戻ってから、荷物の整理を始める。けっこう重い荷物が出来上がる。その後、オリンピック関係の番組(英国が、ヨットの女子イングリング級で金、バドミントンのミックス・ダブルスで銀をとったのが、ハイライト)を手始めに、ニュース、お色気、お笑い、トークショー、サッカーと、ついついテレビを見続ける。

■ 2004/08/20 (Fri)
学会が終わる
Glasgow
National Express coach to London
 前夜、深夜まで寝ていたので、朝はゆっくり準備をし、10時半にチェックアウトして大きな荷物を預け、三人で中心部のライトハウス(レニー・マッキントッシュについての展示をしているミニ博物館:元は、マッキントッシュが設計した新聞社屋)へ行く。塔屋に階段で登るのは、結構しんどかった、高い建築物が増えた現在では、眺望は今一つだった。中のカフェでひと休みし、午後6時にSECCで待ち合わせることにして、K君に自由行動で観光に行ってもらう。娘が本屋に行きたいというので、彼女の目当てのアメコミなどがありそうなボーダーズへ行き、しばらく勝手にさせて、こちらは、安売りのコーナーでジャズ史のビジュアル本を買ってから、店内のスターバックスでカフェ・モカをとって、ゆっくりパソコンに向かう。結局、パソコンをいじりながら2時間近く粘っていた。途中でまったく偶然にK君が現れたりもした。結局それだけ粘った挙げ句に娘は、スタバにやって来て、キャラメルソースのかかった何かを飲んでひと休みした。彼女が選んで来たのはアメコミばかり数册、帰り際には安売りのコーナーでもさらにマンガを選んで自分のお小遣いで買った。マンガの本は日本の感覚より遥かに高価である。
 買い物が一通り終わって、SECCへ向かって歩いて行く。最初はバスに乗るつもりだったのだが、バス停のある通りを勘違いして西へ進み、途中からは歩き通す気になって、結局随分ゆっくりと歩き通した。会場についたのは3時半で、ちょうど最後のセッションが始まった所だった。娘をロビーのカフェで待たせて、フェミニスト地理学のセッションへ行く。女性のスポーツ参加をめぐる身体性や空間性といった話、アメリカの女子プロ・バスケットボールをめぐる空間とレズビアニズムの関係についての報告、男性の乳房が膨らむ病気(「豊胸症」とでも言うのだろうか?)の患者の身体感覚をめぐる問題提起、エディンバラのプライド・スコットランド(広義のクイアのパレード)にドラム隊として参加した経験を踏まえた、行進者と観衆の相互作用についての報告と、いずれも興味深かった。特に「空間 space」という言葉の理解が日本語と英語で少々ずれているのか、地理学を狭く捉えようとする発想とは違う所から、いろいろな話が出てくる感じが面白かった。

ありがた味が判る人は少ない(?) バティマー会長
 いったんカフェに戻ると、娘は一人で落書きをしたり、さっき買ったマンガを見ていた。閉会式が始まる時間となったのだが、しばらく席について一緒にいた。しかし、(当然ながら)閉会式には興味がないようなので、さらに待っているように言って、会場のロモンド講堂に入った。階段教室状の会場には二百人あまりが着席していた。ちょうど会長(アン・バティマー)の演説が一通り終わったところだったようで、各種表彰が進み、さらに今後の集会に関する挨拶、引き継ぎの儀式、次の次の大会の選定結果の報告、などが行われた。ちなみに、2年後の地域集会はオーストラリアのブリスベン、4年後の次回大会はチュニジアで、それぞれを代表した挨拶があった。ちなみに、今回特に言及はなかったが、6年後の地域集会はイスラエルのテル・アビブに決定している。今回、意外だったのは、昨晩票決が行われたという8年後の大会の開催地が、ケルンになったことだった。ほかに北京とサンチャゴが立候補していたはずで、大会期間中の北京の展示ブースでは、2012年の「北京大会」を随分はりきって宣伝していた。中国の代表団はさぞがっかりしたことだろう。
 一時間ほどで閉会式は終わり、挨拶にも立った駐英チュニジア大使の振る舞いという簡単なレセプションに移った。いったんカフェに戻ると、ちょうどK君が会場に来た所だった。2人に待っていてもらい、レセプションへ顔を出す。当然だがIGU副会長の一人であるT先生も御夫妻でその場にいらっしゃった。奥様に、娘が外で待っていることを話すと、会いたいとおっしゃったので、娘を呼んで来て簡単に御挨拶させる。
 少し早めに会場を出て、K君と娘と三人でアーガイル・ストリートからバスに乗り、中央駅の東側のピザ・ハットでマルゲリータ・ピザと盛り合わせをとって夕食にする。久々の、アメリカ式の(パンのような)ピザで、満腹になる。食事を終え、バスに乗って宿まで戻り、預けていた荷物を取り出し、再び市内へ向かった。ちょうど、ブキャナン・ストリートのバス・ターミナルまで行く56番バスが来たので、これに乗って終点まで行く。9時少し前だったが、出発は10時半なので、ゲートのベンチを占領して少し休む。
 10時過ぎにバスの改札が始まったのだが、乗客が多くて混雑している。ちょっと出遅れたかなと思って並んでいて、やっと順番が来たと思ったら、隣のレーンに停車していたバスに行けといわれ、並び直す羽目になる。予約していたのはアバディーン発グラスゴー経由でロンドンへ向かうナショナル・エクスプレスの夜行便だったのだが、追加のバス(車体に「KC」と書かれたチャーター)がグラスゴー=ロンドン間だけ運行されるということらしい。バスの最後尾左側の一角に着席した。乗り込むのに手間取った感じがしたのだが、バスはきちんと定刻の10時半に出発した。
■ 2004/08/21 (Sat)
ダートフォード巡礼

London (Dartford, Camden Market)
London:
St.Athan's Hotel
 ロンドンへの夜行バスは、途中2回、サービスエリアのトイレ休憩で下車した。朝7時前に、ヴィクトリアの長距離バス発着所に到着し、まず歩いてヴィクトリア駅のマクドナルドへ行く。営業は7時ちょうどからということだが、既に着席できるようになっているので、娘とK君に、適当に朝食をとるように指示し、一人で今日使うトラベルカード(乗り放題チケット)を買いに行く。ところが、鉄道駅の観光案内所は7時15分からの営業で、まだ閉っている。仕方がないので、地下鉄の切符売り場へ降りて行くと、並んでいる途中で「ファミリー」扱いについてのポスターが目に入った。並びながらいろいろ考え、改めてK君の意向を確認しないと、買う切符の種類が決められないという結論に至った。結局、何も買わずにマックに戻った。
 結局、7時半頃案内所でファミリー扱いでデイ・トラベルカードをゾーン1−6で買う。グラスゴーでだいぶ重くなった荷物を抱えて、ヴィクトリア線でユーストンへ行き、タヴィストックまでバスでたどり着いた。今夜から2泊する「セント・エイサンズ・ホテル」へ荷物を起きに行く。ちょうど朝食時だったので、紅茶とトーストを出してもらい一息つく。9時頃、近くの「サイバーゲイト」へ行き、久々にメールチェックをする。作業をしている間に、K君と娘は、近くにあるジョン・ライドンが通っていたという大学を見物に行って来たが、戻って来たところで娘にも少しインターネットをいじらせた。結局、ここでは一時間ほどを過ごした。
 そのまま3人でタヴィストックまで行ってバスに乗り、ホルボーンからバンクまでセントラル線、さらにロンドン・ドックランズ線でルイシャムへ行き、鉄道に乗り換える。今日の目的地は、キース・リチャーズとミック・ジャガーの出身地、ケント州ダートフォードの<巡礼>である。ダートフォードは、ロンドンのゾーン6のすぐ先にある駅なので、乗り越しをすればいいと気楽に考えていたのだが、いざ到着すると「本当は無銭乗車の罰金モノだ」と少しおどされ(?)ながら、乗り越し分(3人で、3ポンド75ペンス)を支払う。
 まず最初に、駅の北側の丘(テンプル・ヒル)にあるはずの、キースの旧居を探しに行く。丘のピークを超えて北側の斜面を下って行くのだが、途中で少々不安になって垣根の手入れをしていた老婦人に道を聞いて、目的地にたどり着いた。1950年代に公共住宅として建設されたセミデタッチトの小さな家だった。坂を上って丘の上にある1970年代の集合住宅の一角にある近隣センターへ行き、まず、雑貨屋の奥の郵便局で切手を買う。わざとスコットランドの紙幣を出したが、透かしを確認しているのか、点検をしはしたが、何も文句をいわずに釣り銭をくれた。次に、フィッシュ&チップス屋で、コッド&チップスに、娘のリクエストのソーセージを買って、同じようにスコットランドの紙幣を出してみたが、こちらは「イングリッシュでないとだめ」と受け取ってもらえなかった。なるほどこういう風に反応されるのか、という感覚が分かって来た。
 丘をおりて駅に戻り、中心部の商店街に向かう。週末なので屋台の店もいろいろ出ている。そのまま中心のハイ・ストリートを西へ進みウェスト・ヒルズという通りに出た。ここには、ミックの通ったグラマー・スクール(中等学校)があるはずなのだが、K君のガイドブックの地図が示す位置には学校らしいものはない。また、番地も明記されていない。少し辺りを見て、最近開発された住宅地の一角が学校だったのではないだろうかと見当をつけ、たまたま駐車場で立ち話していた住民に尋ねてみた所、ここには確かに学校があったが、それはトリニティという教会系の学校だったという。男子校のグラマースクールは、この通りのずっと先(西)だという。ガイドブックは、別の学校の位置に印を付けていたのだろうか?
 次に、そこから程近い場所にあるはずの、キースが通った技術学校(テクニカル・スクール)を探しに行く。するとどうやらすっかり更地になって、住宅地開発の看板が出ている一角がそうらしい。通りを歩いて来た人に、ここはテクニカル・スクールがあった場所かと尋ねてみると、ほんの4ヶ月前まで古い建物が残っていたそうだ。敷地内に入ろうとすると、中から工事関係者らしい人物が、こちらを挙動不振とみたのか、こちらにやって来た。少し話を聞くと、何でも敷地内には幼稚園なども一緒にあったらしい。とにかく今は更地である。
 さらに西へ進んでいくと、学校らしい敷地に面した交差点に出た。もしやと思い右(北)へ折れて校門の方へ行くと、何と「ミック・ジャガー・センター」と看板が出された建物があるではないか! 念のため、バス停を見ると、やはりここが男子校のグラマー・スクールだった。さらに北へ進んで、先ほどのウェスト・ヒルの通りに出て左折して西へ向かう。1866年の年号が刻まれた校舎を眺めながら、母校に自分の名を冠した建物を寄付したサー・マイケルと、母校が消えてしまったキースの対照を目の当たりにして、しばし感慨に耽った。
 そのままだらだら、結構な距離を西へ進み、いつしか通りの名もダートフォード・ロードとなり、谷を下り、丘を再度上り、キースとミックが同じ小学校で顔見知りだったという住宅地に入った。まず、小学校(プライマリー)の場所を確認する。もちろん敷地内には入れないが、塀の外から見る限り、50年代に遡れそうな建物は見当たらない。そのままキースの家(テンプル・ヒルに引っ越す前の家)を探しに行くが、またまたガイドに記載された番地と地図上のマークの位置が一致しない。チャスティリアン・ロードの33番地は、地図のマークとは随分違った位置で、しかも近隣センターの花屋であった。おかしいなと思いながら、バス停にいた人に道をたずねて、ミックの家を探しに行く。こちらは、なるほどという感じ。古い窓枠などをよく保存して手入れしている家だった。おそらく現在の住人も、この家の由来を心得ていて、(少なくとも外観は)当時の雰囲気を保つようにしているのだろう。念のため、ガイドでキースの家のマークがついている辺りへもう一度と行ってみると、奇数側の120番台にごく最近の住宅と思しき家が続いた後、141番に番号が飛んでいた。地図を信じると、この141番周辺のどこかが、キースの家のあった場所ということになりそうだ。おそらく、地番のつけ替えがあったか、120番台の再開発以前に、そこに「133」番が存在して、ガイドが記載を間違えたか、いずれにせよ何らかの間違いがあったのだろう。いずれにせよ、キースの家は、ミックの小学校への通学路に面していたのだろう。
 近くのバス停が、既にロンドン・バスのエリアに入っているので、しばらく待ってシドカップへ行くバスに乗った。ところが、理由はよく判らないが、このバスはバックスレー・ヒースのショッピング・センターで運行中止となり、ここでバスを乗りついて、シドカップへ行く。結局、ここから鉄道に乗ってロンドン・ブリッジ駅まで戻った。
 バスや電車の中ではかなり寝入ってしまうくらい疲れていたのだが、宿には戻らず、そのままノーザン線で、カムデンへ向かうことにした。カムデンは週末とあって人出がかなりある。先だって来た時には閉っていた所も含め、街も店も活気に溢れていた。まず駅からそう遠くない店で、娘がお気に入りのキャラクターの商品を見つけしばらく見ている。結局ここでは、Tシャツとバッジを買った。次に、お目当ての古着屋へ行き、いろいろ迷った挙げ句自分の物は買わなかったのだが、娘に黒のジャケット(25ポンド)を見立てる。娘は自分でも黒のドレス(45ポンド)を選び、自分で買おうか随分迷っている様子だったので、結局、買ってやることにした。合わせて70ポンドを、ほんの気持ちだけまけてもらい65ドルを支払う。スコットランドの紙幣を出し、「これしかないんだけど」というと「これだってお金よ、構わないわ」と受け取ってくれた。この間、隣のブーツ屋に沈澱していたK君も、一足、買い物をしていた。
 宿に戻って、地下に預けていた荷物を受け取り、部屋に向かう。部屋は「3階」つまり屋根裏部屋にあたる4階の21号室で、重い荷物を持ち上げるのに一苦労した。ひと休みしてから食べ物でも買いに行こうと思っているうちに、娘が本格的に寝てしまい、こちらもあまり空腹を感じないまま、比較的早い時間に寝てしまった。K君はそのまましばらく起きていたらしい。
■ 2004/08/22 (Sun)
買い物三昧

London (Portobello Market, Camden Market)
London:
St.Athan's Hotel
 朝7時半頃、目が醒めたが、しばらくぼけっとしたまま過ごし、8時を回ってから起き上がり、2人を起こして、朝食に降りて行く。意外なことに、今回こちらに来て最初のフル・イングリッシュ・ブレックファストである(最初のロンドンの宿はなぜか最小限の品目しか出さなかったし、グラスゴーの宿は朝食なしだった)。
 今日は、K君は単独行動でロンドンの南西の郊外へ出かけるという。こちらは娘と2人でマーケットまわりということになる。10時過ぎに宿を出て、ラッセル・スクエア駅でゾーン1−2のトラベルカード(オフピーク)を買い、キングズ・クロス=セント・パンクラスで、ハマ−スミス&シティ線に乗り換えて、ゴールドホーク・ロードまで行ったのだが、今日はニュー・シェパーズ・ブッシュ・マーケットが完全に閉っているのが車中から見えたので、折り返してラドブロウク・グロウヴで下車し、ポートベロを見てまわる。ウェストウェイ下のテントの屋台で、MTV本を1冊買った後、ポートベロの骨董屋が並ぶ辺りの屋台で、バネ式の蓄音機を手ごろな値段で売っているのを見つけ、動作を確認して少し値切って買う(値段は秘密にしておく)。他にも土産物などを買い、駅に戻る。
 パディントン駅へ行き、パディントン・ベアの銅像を見てから、エスカレータで2フロア上に上がり、お茶と軽食で一服する。次いで、今度はサークル線で、同じようにホームズの銅像を眺めにベイカー・ストリート駅へ行く。土産物屋の「エンポリウム」に娘を連れて行くが、ここでは結局何も買わなかった。午後1時過ぎに、いったん宿に戻り、「サイバーゲイト」にメールを読みに行き、娘にも少し使わせる。そこからキングズ・クロス=セント・パンクラスまで歩いて行き、ノーザン線でカムデンに向かった。今日は、昨日に引き続いて娘がお気に入りのキャラクターのバッグ類を中心に物色し、結局バッグを3点、その他に小物を2点買い回った。夕食は、カムデン・タウン近くのタイ料理(?)のビュッフェで済ませる。
 宿に戻ると、先に帰っていたK君がベッドで休んでいたのだが、こちらがドアを開けたのに随分と驚かせてしまった。この宿は、クレジット・カードも使えるが、現金の料金に4%上乗せになると言われたので、現金で、出発前夜の今夜のうちに宿代を支払う。2泊で126ポンドである。昼間、カムデンの比較的良心的な両替屋で、1万円=46ポンドのレートで4万円を換えたにもかかわらず、現金の持ち合わせが足りず、K君に50ポンド借りる。精算を済ませた後、しばらく1階のテレビで、陸上競技を中心にオリンピックを見る。日本選手で画面に現れたのは、ハンマー投げの室伏くらいだった。
 部屋に戻り、日記を書いたり、少しパソコンをいじる。今日は、休日らしい休日だった。
■ 2004/08/23 (Mon)
HRCに再挑戦

London
London:
Rosedene Hotel
 8時近くに起床し、遅めのタイミングで朝食に向かう。荷物のつめ直しをしてから、いったん娘と2人でサイバーゲイトへ行き、メールをチェックする。それから大英博物館へ行こうとしたのだが、にわかに雨脚が強くなり、ラッセル・スクエアの地下鉄駅に逃げ込んで、トラベルカードを買ってホルボーンへ行き、正面から入館して、ネコのミイラとブロンズ像(アンダーソン=ゲイヤー・キャット)を見て、宿に戻る。
 正午少し前に宿を出て、ヴィクトリアへ向かおうとしたのだが、とにかく荷物が重くてどうしようもない。タヴィストックのバス停でしばらく休んでから、バスでホルボーンへ行き、ナイツブリッジで降りて、C1で宿の近くまでたどり着いた。ヘトヘトになって今夜の宿「ローズディーン」に到着する。ちょっと早めだが、部屋は出来ているというので、「2階」(3階)の7号室に入るが、ドアは取り替えたばかりで何も塗っていない板がむき出し、という状態だった。ベッドは2段ベッドとシングルである。この宿は以前に一度泊まっているのだが、どうやらオーナーが代わり、いろいろ全面的に改装が進んでいる最中らしい。以前は食堂があった地下も、部屋に改装されている(あるいはその途中?)ようだ。
 荷物を下ろしてから、午後は単独行動をするK君を送りだし、娘と2人で少し昼寝をする。午後2時過ぎから娘と出かけ、まず、オックスフォード・サーカスのマークス&スペンサーの両替窓口へ立ち寄る。その後、今日もまたカムデンのマーケットに出かけて、娘にまたTシャツなどを買う。カムデン・タウン駅に近い「ジャズ・カフェ」にも行き、ロンドンを立つ前夜=26日のライブのチケットを買う。
 地下鉄でレスター・スクエアまで移動し、ナショナル・ギャラリーへ行く。もう4時を回っているし、この後の予定もあるので、今日はあまり時間はないのだが、娘にレオナルドの「岩窟の聖母」とホルバインの「大使たち」を見せて説明する。娘は絵を見るより、ミュージアム・ショップの方が楽しそうだったが、結局何も買わなかった。そのままだらだら散歩してピカデリーまで行き、娘の希望でレコード店(ヴァージン・メガストア)に入ったのだが、何がなんだか判らない様子だった。しばらく店内を眺め、何も買わずに出た。もう一軒のメガストアにも立ち寄るが、同様だった。この時点で6時頃だったのだが、K君とは、7時45分にハード・ロック・カフェで待ち合わせているので、2時間近く時間がある。たまたまシャパーズ・ブッシュまで行くバスが来たので、暇つぶしのつもりで乗り込み、ゴールドホーク・ロードまで行く。今日も市場はほとんど休みの状態だが、閑散とした市場を抜けてハマ−スミス&シティ線のシャパーズ・ブッシュ駅まで行き、さらに、セントラル線のシャパーズ・ブッシュ駅へ向かう。途中で、中古CD屋を少し冷やかす。
 その後、セントラル線でボンド・ストリートまで行き、バスを乗り継いで、ちょうど約束の時間にK君と合流した。娘にHRCのジャージを買い、カフェの地下で食事をする。通されたところは、イギー・ポップのステージ衣装と、ジェフ・ベックのフェンダーに挟まれた角の席だった。いつものように、ナッチョスとサラダ、そしてデザートをとった。
 満腹になって宿に戻ったのは10時を回っていた。部屋には、明日の朝食代わりの簡単な食べ物のセットが置かれていた。3人で1泊57ポンドは確かに安いが、少々残念な感じもした。(前回泊まった時、朝食が結構よかった印象があった分、がっかりした度合いが大きかったのかもしれない。)2段ベッドの下の段でパソコンをいじりながら寝てしまった。
■ 2004/08/24 (Tue)
気紛れな雨脚に翻弄される

London (British Museum, Victoria Park)
London:
Lynton Hotel
 夜中に少し起きたりもしたが、結局、朝7時頃に起床。荷物の整理などをして9時頃に、リントンへ行き、S氏(先日は会わなかった経営者兄弟の兄の方)に、部屋の事などを確認する。結局、ローズディーンがちょっとひどいのと、帰国前の晩にリントンに部屋が空いているという条件が揃ったので、今夜から帰国まで3晩をリントンで世話になることにした。10時過ぎから荷物を移動して、リントンに預け、10時半頃、リントンを出る。
 まず、ヴィクトリア駅まで歩いて行き、トラベルカードを買って、ユーストンまで行き、サイバーゲイトでメールを読み出す。今夜、会食する予定となっているT氏から、待ち合わせる店のお知らせが来ていた。そのまま、しばらく作業をする。
 サイバーゲイトでの用事が済んでから、歩いて大英博物館へ向かう。今日は裏口入館で、エジプトのミイラなどを見る。リーディング・ルームを見下ろすカフェのハイ・ティーを午後3時半に予約してから、ヴィクトリア・パークを見に行くことにして、博物館を出る。ところがトテナム・コート・ロードの交差点で雨脚が急に激しくなり、とりあえずバス停に逃げ込んだものの、ほんの数十メートル先の別のバス停に移動することもままならないような状態になった。最初の予定では、ユーストンへ行き、ハックニー・ウィックまでバスで行く予定だったのだが、ユーストン方面へ行くバスのバス停まで移動することもできず、とりあえず、ハムステッド・ヒース行きのバスに雨宿りのつもりで逃げ込んだ。路線図を見ると、ハムステッド・ヒースからハックニー・ウィックまでは、鉄道で乗り換えなしで行ける。

何もない芝生という贅沢
 ところがである。雨もほとんど上がったところで、終点のハムステッド・ヒースでバスを降りて駅へ行くと、何とハイベリー&イズリントンから先は、線路工事で運休中だという告知が出ていた。とりあえず、ハイベリー&イズリントンまでシルバーリンクの電車で行き、そこでまずハックニー・セントラルまで代行バスに乗った。ハックニー・セントラルで路線バスに乗り換えてハックニー・ウィックを目指したのだが、途中の道路が大渋滞で、結局ハムステッド・ヒースからハックニー・ウィックまで1時間以上かかった。しかも、目指すヴィクトリア・パークとハックニー・ウィックの間には高速道路があって、これの下をくぐれる場所が少し離れている。しばらく歩いて何とか公園の入り口にたどり着いた時は、本当にほっとした。結局、もう2時を大きく回っていたので、公園を横切ってみただけだったが、ひたすら緑の芝生が広がる公園があるという贅沢さをつくずく感じた。公園の西側に出て、やって来たバスに乗り、さらにバスを乗りついで、ちょうど3時半直前に大英博物館まで戻ることが出来た。
 3時半からハイ・ティーを小一時間楽しむ。スコーンにクロッテッド・クリームというのは、シンプルで英国らしい素朴な味だ。K君は「大英博物館ビール」を飲み、娘はチョコレート・ケーキを2個平らげた上にホット・チョコレートを飲んだ。
 4時半に博物館を出ようとしたのだが、荷物をうっかりカフェに忘れてしまい、取りに戻る。博物館近くの両替屋で手元に残る最後の1万円札を両替し、宿代を作る。それから地下鉄を乗り継いで、ベイカー・ストリートへ行き、ベイカー街221B(実際には239)のシャーロック・ホームズ博物館へ行く。K君が入場している間、娘と2人で近所の土産物屋や新古本屋を冷やかして回る。
 6時に博物館前でK君と合流し、ベイカールー線とヴィクトリア線を乗り継いで、ヴィクトリア駅に戻り、宿へ向かうが、また雨脚が強くなり、最後はけっこう濡れ鼠になってしまった。宿の部屋は、「1階」(グラウンド・フロア=地上階)の1号室。既に、荷物が運ばれ、補助ベッドもセットされていた。
 7時にT氏と待ち合わせているレストラン「オリーヴォ」は、歩いてすぐの所なのだが、雨脚が少し弱くならないかと思い、ぎりぎりまで宿にいて、55分前に宿を出てレストランへ向かった。7時ちょうどに店の前に着いたのだが、何とドアが閉っている。中には人がいて開店準備をしている。三人でドアの前に立ち往生していると、中からドアを開けてくれたのがT氏だった。彼には、半年ほど前に、メールのやり取りでいろいろお世話になったのだが、今回が初対面で、この会食は先だっての件へのお礼の意味を込めてのことだ。本格的なイタリア(サルディニア?)料理は、全体的に少々塩辛かったが、美味しかった。
 9時過ぎにT氏と別れて宿に戻り、テレビを見たり、パソコンをいじったりしながら、結構遅くまで起きていた。4チャンネルでやっていた、セカンダリ−・モダン・スクールの皮肉たっぷりだが明るいドキュメンタリーが、なかなか面白かった。
■ 2004/08/25 (Wed)
さすがに疲れがたまっている様子

London
London:
Lynton Hotel
 朝は9時少し前にようやく目が醒め、慌てて2人を起こして朝食に降りて行く。今日は、K君は単独行動なので先に宿を出た。こちらは、娘と2人で買い物に行くだけで特に用事はない。娘は、シェパーズ・ブッシュで入った小さいレコード店と、大英博物館に近いコミックの店に行きたいという。
 結局、少しゆっくり部屋で休んでから10時半頃に部屋を出て、ヴィクトリアからユーストンまで地下鉄で行き、サイバーゲイトでメール・チェックをして、ジュド・トゥー・ブックスで2冊だけ本を買う。
 昼少し前に、ピカデリー線とセントラル線を乗り継いでラッセル・スクエアからシェパーズ・ブッシュへ行く。例のレコード店で、娘がジャケ買い気味で選んだ中から、ホワイト・ストライプス、プリテンダーズのベスト盤、聞いたことのないバンドのものと3点を買う。店を出たとたん雨が強くなった。近くでお茶でもしようと娘に言うと、地下鉄駅の近くのスターバックスまで戻りたいと言うので、歩き出したが、あまりに雨が強くなったので、チャリティの店に雨宿りで飛び込み、たまたま色が気に入ったコーヒー店の制服らしき半袖シャツを1ポンドで買う。雨が少し弱くなったところで、スタバに入り一息入れる。娘は早速、さっき買ったCDを、カムデンで買ったお気に入りのCDケースに移し替えていた。
 セントラル線でトテナム・コート・ロードまで戻り、娘がコミック店で時間を使っているうちに、近くの別の古本屋をじっくり見る。結局、娘も自分も、それぞれ居座った店で1冊ずつ本を買った。娘はおなかがすいていないと言うので、ずるずると昼食をとりそびれてしまったので、夕食はどうしようと思ったが、とりあえず宿に戻ることにしてオックスフォード・サーカスで乗り換えてヴィクトリアへ戻り、サインズベリーの店で飲み物やグリッシニを買う。
 部屋に戻ったのは、4時半頃だった。買ってきたものと、手持ちのカップ・スープなどで食事をとる。今日はあまり動いていなかったはずなのに、このところの疲れがたまっていたのか、食後にベッドでウトウト休む。
 7時頃にK君が戻ってくる。今日はハムステッド方面を見て来たらしい。8時半頃、一人で外に出て、フィッシュ&チップスとBBQチキンを買って戻る。夜はプレミア・リーグ関係のテレビをずっと見る。アーセナルがリーグでの連勝記録を塗り替えたということが大ニュースだった。(ちなみに、一般ニュースのトップは、マーク・サッチャーの逮捕だった。)
■ 2004/08/26 (Thu)
ライブ!

London (Hyde Park, Camden Town)
London:
Lynton Hotel
 朝は8時過ぎに起き、2人を起こして朝食へ行く。今日もK君は単独行動なので、9時頃に宿を出た。こちらは疲れも出ているし、時差調整もかねて、午前中いっぱい休むことにして、娘と部屋で午前中いっぱい過ごす。
 昼過ぎにカムデンに出かけて娘の買い物につきあい、次にユーストン経由で「サイバーゲイト」へ行き、メールをやり取りする。帰国後の事をいろいろ手配する。今日も娘は食欲がないと言うので、昼食は止めにし、宿に戻る。まだ4時前だったが、K君も戻っていて、しばらく夕方まで休むことにする。娘はすぐに眠り、K君も休む体制だったが、少し思い立ったので、こちらは一人で散歩に出ることにし、まずサークル線とセントラル線を乗り継いでシェパーズ・ブッシュへ行き、次にセントラル線でマーブル・アーチまで行ってハイド・パークを横切り、最後はサウス・ケンジントンまで歩いてヴィクトリアに戻った。
 宿で一息入れ、7時過ぎに三人でカムデン・タウンに向かう。東京スカ・パラダイス・オーケストラのライブを見に行くのだ。7時半頃、会場の「ジャズ・カフェ」の前まで行ってみたが、まだサポート・アクトの演奏も始まっていない。隣の日本食の店の前では、スカパラのメンバーが日本のメディアの取材に応じていた。ひと回りマーケット(もちろん店はほとんど閉っている)を歩いて時間を潰し、8時過ぎに店に入った。結構待ってから、まずハイポ・サイコというパンク系のバンド(ヴォーカルはクラッシュのTシャツを着ていた)で盛り上がり、その後、セッティングに結構時間がかかって少々待ちあぐねたと思うくらいのタイミングで、スカパラの演奏を堪能した(ただし、PAはちょっといただけなかった)。生でスカパラを見るのは、十年ぶりくらいのはずだ。トークがほとんどない分、次々と演奏が展開され、密度の濃い2時間弱だった。
 11時半頃宿に戻り、荷物を整理してからベッドに入る。

■ 2004/08/27 (Fri)+/28 (Sat)
ゆっくり帰国

London
VS900便 機中
 朝は6時頃に目が醒めたので、シャワーを浴びる。K君も起きたので、娘を起こして8時頃から朝食へ降りて行く。9時半頃に、雨がけっこう強い中を宿を出て、荷物があったのでタクシーを拾ってヴィクトリア駅まで行き、地下鉄でヒースローへ向かった。予定通り午前11時前にチェック・インし、淡々と出国手続き、搭乗を済ませた。出発時に離陸機が輻輳して少々出発は遅れたが、その後は順調な飛行だった。
 機中では、なぜかゲームができず、もっぱら音楽を聞いていた。娘は隣の席だったが、『キル・ビル』などの映画を見ていたようだ。英国時間に合っているのか、日本到着が近くなってからは、かなり眠っていた様子だった。こちらも断続的に夢を見るような寝方をする。
 成田に到着後、K君は荷物を宅配し、身軽になったところで、成田空港を見物してから帰るということで、空港で別れ、娘と快速「エアポート」に乗る。東京駅で娘と別れ、中央線で国分寺に戻る。大学までタクシーに乗り、荷物を下ろそうと思ったのだが、守衛所で鍵を借りる時に今日が計画停電の日だったことを念押しされた。荷物を1階のエレベータのそばに起き、歩いて6階まで上がり、薄暗い中で鍵束をとって、留守中の郵便物の処理を少しした上で、いったん鍵を守衛所に返し、下宿に向かった。久々に湯舟にゆっくり漬かり、2時過ぎから夕方まで熟睡した。やるべき仕事は山ほど溜まっているが、まずは休養だ。



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