【山田 晴通】 得難い人、村田さんを偲ぶ
若い頃に読んだ、ある地理学の教科書の学史のページに、重要な研究者たちの写真や肖像画に添えて、名前と生没年、主要な所属大学名等が記載されている中で、大学名の代わりに「独立研究者」と記された人物がいた。19世紀前半に活躍し、近代地理学の先駆けとなったアレクサンダー・フォン・フンボルト である。プロイセン貴族だったフンボルトは、パリに永く住み、社交界の花形だった。もちろん、生活のために特定の機関に所属して研究や教育に従事するといったことは生涯しなかった。
「independent scholar」、すなわち、「組織に属さない/依存しない学究」、という姿は、「ディレッタント」とか「好事家」とも微妙に共鳴しながら、しかし、それとは一線を画す存在として、頭の片隅に残った。
私が村田さんと話をするようになったのは、1991年11月に神戸で開催された「JASPM3」の時だったと思う。それ以前に、例えばその一年前のJASPM設立大会でもお目にかかっていたかもしれないが、はっきり記憶があるのは、神戸大会のときだ。村田さんが、その穏やかな風貌や訥々とした話し方の背後に、強い確信に裏打ちされた独自のものの見方をもった人であり、ただならぬ、また、やっかいな論客であることは直ぐにわかった。
やがて村田さんが、生計を学問や教育に依存しない、一種の「独立研究者」であることを知り、最初に「ただならぬ」と感じたわけが腑に落ちた。JASPMには、普通の学会よりも、多様な会員がいる。特に、設立当初の時期はそうだった。その中にあっても、研究への高い見識をもちながら、大学に所属する者(私もそのひとり)とは異なる感性を踏まえて、積極的に発言されていた村田さんの存在は貴重だった。
1993年の松本大会のとき、懇親会の余興で村田さんはストライド・ピアノを披露された。その時もう一人村田さんがいれば、その音を残せていたかもしれない。村田さんは、そういう意味でも得難い人であった。
今、村田さんが残した仕事を振り返ると、間違いなく永く残るアドルノの訳業などとは別に、封書の年賀状や、JASPMのニューズレターやメーリングリストに村田さんが残された、無数の思考の断片を思わずにはいられない。こうした村田さんの、魅力的なクライナー・シュリフテンを、何らかの形で読み継げるようにする工夫はないものだろうか。
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