「村田公一さんを偲ぶ会」パンフレットへの寄稿文

 音楽美学を専攻され、日本ポピュラー音楽学会で山田とご縁のあった、村田公一さんは、2005年7月13日に旅先のデュッセルドルフで急逝されました。

 山田は、2009年2月22日に神戸で行われた「村田公一さんを偲ぶ会」の呼びかけに加わりましたが、当日を含め、前後のスケジュールが多忙になってしまい、午後の第一部の会にだけ出席し、第二部の夕食会は失礼しました。第一部の会には50名あまりの方々にご参集いただきました。
 この会で当日配布されたパンフレットには、村田さんと縁のあった方々の文が綴られていました。山田もこのパンフレットに文章を寄せました。ここでは、その全文を公開します。
(2009.02.25.)

【山田 晴通】  得難い人、村田さんを偲ぶ


 若い頃に読んだ、ある地理学の教科書の学史のページに、重要な研究者たちの写真や肖像画に添えて、名前と生没年、主要な所属大学名等が記載されている中で、大学名の代わりに「独立研究者」と記された人物がいた。19世紀前半に活躍し、近代地理学の先駆けとなったアレクサンダー・フォン・フンボルト である。プロイセン貴族だったフンボルトは、パリに永く住み、社交界の花形だった。もちろん、生活のために特定の機関に所属して研究や教育に従事するといったことは生涯しなかった。
 「independent scholar」、すなわち、「組織に属さない/依存しない学究」、という姿は、「ディレッタント」とか「好事家」とも微妙に共鳴しながら、しかし、それとは一線を画す存在として、頭の片隅に残った。

 私が村田さんと話をするようになったのは、1991年11月に神戸で開催された「JASPM3」の時だったと思う。それ以前に、例えばその一年前のJASPM設立大会でもお目にかかっていたかもしれないが、はっきり記憶があるのは、神戸大会のときだ。村田さんが、その穏やかな風貌や訥々とした話し方の背後に、強い確信に裏打ちされた独自のものの見方をもった人であり、ただならぬ、また、やっかいな論客であることは直ぐにわかった。
 やがて村田さんが、生計を学問や教育に依存しない、一種の「独立研究者」であることを知り、最初に「ただならぬ」と感じたわけが腑に落ちた。JASPMには、普通の学会よりも、多様な会員がいる。特に、設立当初の時期はそうだった。その中にあっても、研究への高い見識をもちながら、大学に所属する者(私もそのひとり)とは異なる感性を踏まえて、積極的に発言されていた村田さんの存在は貴重だった。
 1993年の松本大会のとき、懇親会の余興で村田さんはストライド・ピアノを披露された。その時もう一人村田さんがいれば、その音を残せていたかもしれない。村田さんは、そういう意味でも得難い人であった。

 今、村田さんが残した仕事を振り返ると、間違いなく永く残るアドルノの訳業などとは別に、封書の年賀状や、JASPMのニューズレターやメーリングリストに村田さんが残された、無数の思考の断片を思わずにはいられない。こうした村田さんの、魅力的なクライナー・シュリフテンを、何らかの形で読み継げるようにする工夫はないものだろうか。


村田 公一(むらた・きみかず)
1950年、函館市生まれ。
小学校のときに、一家で大阪へ転居。
大阪市立日本橋小学校、大阪市立日本橋中学校、大阪府立今宮高等学校卒業。
1975年、関西学院大学文学部美学科卒業。
1976年、家業のビル経営業を相続。
以降、本業(ビル経営)の傍ら、関西学院大学大学院に学び、博士課程、研究員を経て、非常勤講師として関西を中心に専門学校や大学などで教鞭をとるようになる。
1986年、日常生活と音楽研究会(日音研)に参加。
1990年、日本ポピュラー音楽学会に参加、後に理事、監事などを歴任。
2001年、大阪芸術大学より博士(芸術文化学)を取得。学位請求論文「売れ筋日本語ポップスの研究―母語のコミュニケーションを軸とする大衆感覚論の試み」
2008年7月13日、旅行先のドイツ・デュッセルドルフで脳出血のため急逝。(「偲ぶ会」パンフレットの奥様の文章によれば、<空港で「何かすごく変だ、医者を呼んでもらって」と自分で言ってからたった3時間で逝ってしまいました>という。)
(2009.02.22.記)
村田公一さんのおもな業績(刊行物)

[参考]

村田公一さんを偲ぶ会 2009.2.22 第一部で演奏された方々[敬称略]

*なお、阪下 政子 さんの伴奏での歌唱を予定されていた 木村 篤子さん は、荒天による航空便の欠航のため、北海道から来場することが叶わず、欠席されました。

*一目瞭然のことですが、演奏者はプロもセミプロもまったくのアマチュアもいて、ジャンルはクラシックから現代音楽、民謡、ジャズもフリーもあれば、オーソドックスなバップもあり、最後は村田さんが卒論で指導した売れ筋ポップスという幅の広さでした。村田さん自身の交流の広がりと、音楽への幅広い指向性が反映されているプログラムでした。

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