先生が「私的ホームページ」のなかで「行進曲」について論じられていらっしゃいますが、「格の低いものであることを示唆」という点には異論があります。 行進曲は、軍隊の行進のために作られたという生い立ちがあって、一般的には「鑑賞用」の音楽ではなく実用のものという位置付けでしょう。 しかし、それならば、チャイコフスキーの第5交響曲の第3楽章は舞踏用のワルツそのものです。 ブルックナーの交響曲のアダージョ楽章だって、聴きようによっては「神の世界」へと聞き手を誘い、瞑想を促します。 ベートーヴェンの第7交響曲は聞き手の精神を高揚させる実用性の高い音楽という人もいるかも知れません。 要は、行進曲というカテゴリーがなければ、必ずしも「行進」を想起させるものではない、ということです。 例えば、フランスのギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の演奏した「星条旗よ永遠なれ」を聞くと、その余りに美しく格調高いパフォーマンスに惚れ惚れし、思わず聞き入ってしまいます。 正しく「鑑賞用行進曲」に相応しい演奏です。行進の為の実用音楽という「格の低さ」は全く感じません。 大学の先生に対して反論するなどという、非常識かつ失礼かつ無礼千万なことをしてしまいました。お許し下さい。(実は小生、東経大のOBです) |
「行進曲」についてのコメント、興味深く拝見しました。 まず、誤解のないように申し上げれば、私は「芸術音楽」の基準を自分の規範としている訳ではありません。 その上で、以下のように述べております。
「マーチという形式の楽曲は、日常生活の中で耳にする機会が多い割には、あまり真剣に聴かれることの少ないものである。その意味では「消費」されている音楽の典型かもしれない。行進という機能的な性格も、芸術音楽の基準から見れば、格の低いものであることを示唆している。しかし、芸術音楽としてクラシック音楽が完成期を迎えた19世紀に、そこで用いられた管楽器を動員して構成されるようになったマーチは、様々な意味で、ポピュラー音楽の先駆けとなった、と位置づけることができる。」 こうした傾向が顕著になる背景には、「プロレタリア芸術」の主張のように「機能性/実用性」を偏重した共産主義やファシズムの芸術観への反発があるようにも思いますが、もともと芸術が、実用性とは異なった指向性をもっていることの反映だと思われます。 At 18:15 0.5.10, 荒尾 wrote: > 行進曲は、軍隊の行進のために作られたという生い立ちがあって、 > 一般的には「鑑賞用」の音楽ではなく実用のものという位置付けで > しょう。 <「鑑賞用」の音楽ではなく実用>と言っているのではありません。 「機能性/実用性」に背を向けた「芸術音楽」イデオロギーから見れば、「機能性/実用性」ゆえに、「格の低いもの」に映ると述べているつもりです。 > しかし、それならば、チャイコフスキーの第5交響曲の第3楽章は > 舞踏用のワルツそのものです。 そうです。 しかし、大ヨハン=シュトラウスのワルツの方が、格段に「実用」に供される機会が多いのではないでしょうか? そして、その分、芸術としての価値に留保がつくのではないでしょうか? また、大方の日本人にとって、ワルツが、行進と同じ水準で芸術から距離を置いた日常の一部であるとは思えないのですが、いかがでしょう。つまり、ワルツは、ヨーロッパ人にとっては実用的な舞踏曲であっても、日本人(特にワルツを踊らない人)にとっては「実用」ではなく観賞芸術以外の何者でもないのではないですか? > ブルックナーの交響曲のアダージョ楽章だって、聴きようによっては > 「神の世界」へと聞き手を誘い、瞑想を促します。 > ベートーヴェンの第7交響曲は聞き手の精神を高揚させる実用性の > 高い音楽という人もいるかも知れません。 「瞑想」や「精神の高揚」は、芸術音楽の強いて上げる場合の実用的側面ではありませんか? あらゆる優れた音楽は、聴く者の内面に精神的な活動を生じさせるのではないでしょうか? > 要は、行進曲というカテゴリーがなければ、必ずしも「行進」を想起 > させるものではない、ということです。 より正確に言えば、行進曲にのって軍隊なり、その他、秩序性の下に統率された集団が「行進」をするという情景を日常の中で経験しなければ、行進曲カテゴリーを、他の音楽から切り離した聴き方はしないはずだということです。 しかし、われわれは「行進曲」というカテゴリーを知っており、その使われ方を生活の中で経験しています。例えば、行進曲を演奏する人々が、ほとんどの場合、制服に、それも軍服を思わせる制服に実を包んでいるという習慣を体験しています。それをまったく無視して、純粋に「芸術音楽」イデオロギーの建て前に沿って論じることは、もちろん可能ですが、私の立場からは意味のあることとは思えません。 逆に、例えば「雅楽」の場合、われわれのほとんどは、本来の使われ方を体験としてはもちろん、知識としてもっていませんから、その音楽の来歴、しがらみから自由な形で、純粋に音そのものに接して鑑賞することができるのかもしれません。(もっとも、より厳密に論じると、ちょっと違って見えてくるとは思いますが。) > 例えば、フランスのギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の演奏した > 「星条旗よ永遠なれ」を聞くと、その余りに美しく格調高いパフォー > マンスに惚れ惚れし、思わず聞き入ってしまいます。 > 正しく「鑑賞用行進曲」に相応しい演奏です。行進の為の実用音楽 > という「格の低さ」は全く感じません。 ここで論じているのは、特定の演奏ではなくマーチ/行進曲という形式です。 むしろここでは、普通の人々の聴取機会について、考えてみるべきです。 例えば、交響曲ならば、プロのオーケストラの演奏を耳にする機会と(技量的により劣った)アマチュアの演奏を耳にする機会では、普通の人は前者の方が多いでしょう。これはライブで聴く機会より録音で聴く機会が多いせいでもあります。 しかし、行進曲ならばこの比率は大きく変わります。行進曲を聴く機会は(交響曲に比べ)ライブが多いはずです。あるいは、テレビ番組のジングルのように、匿名の不完全な断片として録音を耳にする機会も多いでしょう。「余りに美しく格調高いパフォーマンス」を「観賞用」として構えて聴く機会は、交響曲に比べると少ないはずです。 こうした傾向は、われわれの日常生活の中での行進曲の位置をづけを示すものではないでしょうか? |
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