私的ページ:山田晴通

東経大教職組「50年の歩み 1947〜1997」原稿

業績外:1997

「見えない大学」の労働者として.

教職員組合結成50周年記念行事実行委員会・編『教職員組合 50年の歩み 1947〜1997』,東京経済大学教職員組合,pp115-117.


「見えない大学」の労働者として.

 「インビジブル・ユニバーシティ」=「見えない大学」という言葉をご存じでしょうか。
 でも、その本題にはいる前に、「大学」を意味する英語「カレッジ」と「ユニバーシティ」の関係を少しおさらいしておきましょう。「カレッジ」は、「同じ規則の下に結ばれた者たち」という意味のラテン語に由来し、教師と学生が共に寄宿する「学寮」を意味します。これに対し、「ユニバーシティ」は「普遍性」「全世界」といった含意をもち、もともとは一つの大学町の「カレッジ」の連合体を意味します。オックスフォード、ケンブリッジなどの体制が、その典型です。個々の「カレッジ」は独立した機関であり、それが集まって構成される共同体が「ユニバーシティ」というわけです。こうしたニュアンスが転じて、単科大学、短期大学など、小規模の大学を「カレッジ」、多数の学部を擁する総合大学を「ユニバーシティ」というのが英語圏では一般的になっています。ここでいう「見えない大学」は、「ユニバーシティ」だということを理解して置いて下さい。

 さて、研究者は、具体的には個々の組織に所属しています。私は東京経済大学に所属し、そこで給与を得て生計を立てています。しかし、だからといって私は東京経済大学における研究活動に対してだけ責務を負い、東京経済大学の学生への教育活動に対してだけ責務を負っているのでしょうか。どこの職場でも、就業規則を見れば、所属する職場への責務が記載されているはずです。しかし、ここで私がこだわっているのは、就業規則に書き留められた責務の問題ではありません。職業倫理としての責務の問題です。
 大学は、教育機関として、単純な経済合理性や利潤追求の原理では捉え切れない側面を持っています。教授会自治なども、資本の論理ではなく、共同体の論理によって支えられた制度です。学界における研究成果の発表・共有といった習慣は、企業秘密の存在や特許の主張などにも現れる技術・情報の独占といった方向とは、異なった価値意識に基づいているものです。
 研究者が、その所属する大学の資源を動員して行う研究活動は、その大学に成果が還元されることを期待しているものではないはずです。そこには、企業の研究機関と大学の基本的な差異があります。研究者たちは、所属機関という枠組みを超えて交流し、協力し、普遍的に共有される知識の拡大・充実を目指して活動するものです。同様に教育という側面においても、所属機関の枠を超えた教育の機会を拡大することがいよいよ重要になってきていますし、制度的に公認されていなくても、他大学から「潜り」に来た学生を黙認することは一種の美風となっています。特に大学院レベルの教育においては、所属する大学院の正規の講義だけで、実質的な教育が全うできる分野なり、機関は、ほとんど例外的です。研究者かつ教員として東京経済大学に所属する私は、就業規則上はともかく、職業倫理上は、東京経済大学における研究活動に対してだけ責務を負っているわけでも、東京経済大学の学生への教育活動に対してだけ責務を負っているわけでもないのです。
 具体的な個々の大学に対置される「見えない大学」という言葉は、「大学に所属する研究者は、そしてその卵としての大学院などの学生は、所属機関の枠組みを超えて活動し、またそうした場での協力を可能にするために責務を負う」という理念を表した表現です。A大学の教員であろうとB大学の教員であろうと、教授であろうと助手であろうと、専任だろうと非常勤だろうと、教員だろうと学生だろうと、あるいは無所属の独立研究者であろうと、研究・教育において共同体の一員としての責務を果たす者すべてが参加する「見えない大学」こそが、研究者にして大学人たらんとする者が自己のアイデンティティを置くべき場なのです。

 誤解のないように付言すれば、以上のような考え方は、所属機関への愛着や忠誠を否定するものではありません。ただ、より高い原理として、学術研究の普遍的な価値へのコミットメントを意識すべきだと主張するものです。
 また、さらに誤解のないように言葉を継げば、ここで理念として掲げた「学術の普遍性」とか「人類の知識の拡大」といった近代的理念の虚妄性を云々することは容易です。また、私自身、そんなことをナイーブに信じているわけではありません。しかし、大学という制度が社会的に認知され、定立されている根本には、こうした理念が存在しています。大学という制度の根本的な解体の主張を展開することは、本稿の趣旨ではありませんし、そのような制度解体の主張の多くがもっている偽慢性についても、ここで言及する余裕はありません。

 先へ進みましょう。
 冒頭にも述べたように、私は東京経済大学に雇用されて生計を立てています。組合活動を通して、職場の仲間の労働・雇用に関する問題には強い関心を持っています。ここまではごく当然です。着任の年からいきなり二期執行委員を勤め、この間に一番強く感じたのは、組合の中に単組の枠を超えた範囲での諸問題に対する関心が希薄なのではないか、という疑問でした。地区労にせよ、私大教連にせよ、私たちの職場と何らかのつながりのある職場で、今でも深刻な争議が行われています。しかし、これに対する単組内の雰囲気には、切実なものがあまり感じられないというのが率直な印象です。
 私自身、単組の回りにある諸問題のすべてに等しく強い関心があるわけではありません。職種を反映してか、どうしても教員の雇用問題への関心が強くなります。つまり、地域の諸問題や、より一般的な労働問題への関心は、相対的には弱くなりがちです。しかし、私たちの単組の一人一人が、それぞれ関心に応じて、もう少しずつ単組外の問題にコミットしていけば、自分たちの職場を見直し、考えていく上でも、大きな力となるはずです。
 私と同じように、他の職場を経験して来た人は、今の職場を複眼的に眺めることができます。ずっと東京経済大学にいる人でも、複眼的な視点を持っている人はいますが、多くの場合は東京経済大学の枠の中だけでものを考えがちなようです。様々な意味で大学が転換点を迎え、「経営の危機」を前面に出した攻撃も予想される中で、私たちが個人の立場から、また、組合の立場から将来への展望を開いて行くためには、雇用・労働問題の原点にもどって、単組外の、しかし、身近であるはずの諸問題に関心を寄せ、学習し、自分の職場を見つめ直すことがぜひとも必要です。
 たまたま他の大学で、私たちと同じ職種に就いている人たちの雇用が脅かされ、労働環境が悪化するとしたら、次には同じことが私たち自身の上にも降りかかってきて不思議はないのです。大学という職場に働く者の連帯、いわば「見えない大学」の労働者としての連帯が、私たちには必要なのです。そこでは、教員、職員、専任、非常勤といった区分も、職種や雇用条件の違いもない連帯が目指されなければなりません。
 カンパだけ、署名だけでもいいのですが、そこから一歩踏み込んで、厳しい現実を知って下さい。これまで余り関心のなかった方にも、無理なく出来ることから、自分なりのやり方で取り組みを始めて欲しいと思います。



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