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輪のなかで、輪をこえて


東経大教職組機関紙「輪」第200号 原稿(2011)

輪のなかで、輪をこえて

コミュニケーション学部教員 執行委員長 山田晴通  


 子どもの頃、運動会は苦手だった。走るのが遅く、徒競走はいつも最下位を競っていた。苦手だったのはそればかりではない。組体操などは、所作をなかなか覚えられず間違えてばかりで、一緒に演技するクラスメートに迷惑を掛けていた。
 組体操のほかにも、フォークダンスなどもやったはずなのだが、いい思い出は残っていない。子どもの頃の思い出としてありがちな、好きな女の子の手に触れるのがどうのといった類の話ではない。振り付けの順番が身に付かず、次にどうすればよいのか途方に暮れ、緊張して周りを見ながら真似ようとするのだが、自分とは違う所作を真似てしまったりと散々なことになり、後でかなり落ち込むことが多かった。
 たしか「マイム・マイム」だったと思うのだが、大勢で手をつないで大きな輪を作って踊り、途中で手を離して踊ってからまた手をつなぐ、というのは何度やってもすんなりとはできなかった。両側の二人と一度にうまく手をつなぎ直せなかったのだ。いかにも運動神経の悪い子どもだった。
 輪になって踊っている時、一人でも、片方でも手を離せば「輪」は途切れてしまう。あとが繋がっていても、それは最早「輪」にならない。「輪ゴム」は切れれば「輪ゴム」ではない。切れた輪ゴムは、ただの「ゴム」としての使い道を考える間もなく、ゴミ箱行きになるだろう。運動会のフォークダンスで、途切れた輪の切れ端になって必死だった思いは、心地よい記憶ではない。
 「輪」は「和」に通じる。「輪を広げる」といった言い回しも、日本人が好きな言葉のようだ。かく言う自分にとっても、「輪」は嫌いな言葉ではない。だが、この言葉には、ちょっと引っかかるところもある。フォークダンスでするように、大勢で手をつないで「輪」を作るとしよう。すると普通は、皆が内側を向く。「輪」を作ると、視線はついつい内向きになり、「内輪」ばかりが気になるようになる。
 手をつなぎ、輪になって、仲間と視線を交わしながらコミュニケーションを図らなければ、上手なフォークダンスの演技を披露することはできない。しかし、内向きに「内輪」ばかりを見つめていても済まないことは多い。内向きの輪の中の風景だけでなく、視線を外に向けること、手をつないで輪になって踊るときにも、仲間の笑顔の背後に見える遠景を捉えることが、必要なのではないだろうか。

 組合の機関紙『輪』が二百号の紙齢を重ねる。単なるきりのよい数字、と言えばそれまでだが、六十年以上をかけた数字だと考えれば、先輩たちが積み重ねてきた組合活動の歴史を改めて振り返るよい機会である。組合に結集する仲間が、しっかりと手を結び、視野を高く広く持ち、自由闊達な議論を通して人間として高めあっていけるような、そんな組合づくりを引き続き目指していきたい。



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