山田ゼミ(東京経済大学コミュニケーション学部 2005年度「演習」)
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太田 進

日本国内のハードコア音楽シーンにおける“ファンジン”についての考察

 昨今の「音楽」は多様化していく一方である。その多様化していく音楽シーンの中でも、いわゆる一般的かつポピュラーな、メジャーな音楽シーンより、俗にインディーズと呼ばれるようなアマチュア音楽、マイナーかつインディペンデントな音楽シーンの細分化や発展は特に近年めざましいものがある。インディペンデントな活動をしていながら商業的な側面を強く持っている音楽などもあれば、商業的な側面など全く持たない、極めて実験的で楽譜に起こす事など不可能なような、果たして音楽と言えるのかすらも怪しく思えるような代物までさまざまだ。以下、その中でも“ハードコア”と言う単語が説明の過程で用いられるような音楽、パンクから発展してさまざまな形に変化・進化・枝分かれしていったハードコアという音楽のうち日本国内の一部のシーンの文化について綴る。
 ハードコアやパンクと呼ばれるような音楽は、インディーズ音楽シーンの中においても極めてインディペンデントかつD.I.Y.(⇒Do It Yourself)精神に乗っ取って活動しているものが多い。宣伝や流通など、可能な限りをアーティストが自らの手で行っていくようなスタンスを取るのである。ライブハウスなどのスペース内で、自分達の出番以外の時間にアーティスト自身が自らの音源やグッズの販売(⇒物販)を行ったりもする。そしてその延長線的なもので、一部のシーンにおいては“ディストロ”(⇒distribution⇒配布)と呼ばれる行為をする人間も多くいる。“ディストロ”とは、自分が好きであったりゆかりの深いアーティスト(基本的には同じくインディペンデントな活動を行っているアーティストに限られる)の音源やグッズなどを直接アーティスト自身から買い取って流通させる事を言う。数人でグループを作って行っている場合もあるが、基本的には個人的単位で行われることが多い。これはアーティストがアーティスト同士の活動・もしくは尊敬の念を抱いているアーティストを支援し、ほかの人間に紹介して宣伝効果を持たせたりする効果を目的とした行動であると思われる。しかし、“ディストロ”を行う人間はアーティストやバンドを組んでいる人間には全く限られていない。一切自らは音楽活動を行っていない、いち“リスナー”が気に入ったバンドの音源などを買い取って“ディストロ”を行うケースも少なくない。
 その“ディストロ”と関連して“ファンジン”という文化がある。“ファンジン”とは前述のような音楽シーンの中においては、コアな音楽ファンが、同じ類の音楽ファン、関心を共有する人々に情報等提供するため、また好きな音楽やアーティストの認知を広めるためにつくる冊子の事を指す。そしてそのような“ファンジン”を作っている人間には“ディストロ”も共に並行して行っているケースが極めて多いのである。「アーティストを支援する」という意味合いでは近いものがあるからであろうか。この“ファンジン”についてを本レポートでは主に取り扱う。
 まず“ファンジン”の元を辿る。WEB上の検索エンジンにおいてファンジンの語源を検索してみると、いわゆる“オタク”関連のページが多数ヒットする。ファンジンとはそもそも同人雑誌の意味があるためであろう。ファンジンとは元をただせばSF(=science fiction)の同人雑誌を指した語であり、プロが出版するようなもの、
 “出版物(商業出版物)⇒プロ・マガジン⇒プロジン”
 に対して、
 “SFファンが出版する出版物⇒ファン・マガジン⇒ファンジン”
 という意味であった。この場合、ファンというのは、特定の作品のファンという意味ではなく「プロではない立場の人」くらいの意味で用いられているようだ。

 “ファンジン(fanzine)=ファンの雑誌。特にSFファンの同人雑誌をさす。またジン。”
 ※「現代用語の基礎知識2003」より

 Fanzine=fan+magazine("fan"自体は"fanatic"の略語である)からきていると多くの人間からは認知されているようである。しかし英語においては“fan magazine”とは本来ファン消費、つまるところ利益を目的として製作したものを指していたため、“fanzine”は基本的には無料で配布されているようなものを指す。

 “fanzines are traditionally circulated for at most a nominal cost to defray postage or production expenses, in exchange for similar publications or contributions for publication, or free of charge to any interested parties.“
 ※「Wikipedia」(URL=[http://en.wikipedia.org/wiki/Main_Page])より抜粋

 ファンジンの歴史はおおよそ19世紀、アメリカ合衆国においてアマチュアによる詩と解説を載せた冊子が作られたあたりが起源であると考えられており、その後1930年代にはSFのファンジンが生まれ、そして1960年代にはロック・ミュージックのファンジン、1970年代にはパンク・ミュージックのファンジンなど他にも様々な方面のファンジンも生まれ、浸透してきて現在に至っている。
 では前述のような小規模な音楽シーンの中においては“ファンジン”とはどのようなものが存在するのだろうか。前述の狭いシーンの中においては、数人の手によって作られていたがもう廃刊になってしまっている“extend magazine”は特に内容が濃いと評判であった。アーティストのインタビューの内容も濃く、その界隈のビッグネームを揃え、さらにアーティストのサンプル音源が複数入ったサンプラーCDが付録として付き、その中にはファンとしては生唾ものであろう未発表音源まで含まれていたりもした。他にも現在“Shake Your Tambourine”“better done than better said”“夜音車fanzine”などさまざまなファンジンが存在している。内容としてはアーティストへのインタビューや、ライブ・イベントのレポート、音源レビュー、その類の音楽に関するコラム等が主な内容で、一部には前述のようにアーティストのサンプル音源を付録的につけて付加価値を持たせているようなものもある。そして大抵は意外にも語源には反して有料である。しかし値段も安く、ほとんど手売りで大規模な流通形態はもたないものがほとんどであるため、基本的には利益の為に作っているとは思えない。取材や製本などのためにかかった費用をある程度取り戻さないと金銭面で辛いようである、また対価を付ける事により発生する付加価値も狙っているようだ。そして無料であるものはフリーペーパーと呼ばれ、そこで言葉による差別化が行われているようだ。
 また現代においては“ファンジン”的内容をWEB上で代替した“ウェブジン”と呼ばれるものも存在する。
“CHANGEMUSIC.NET”(※URL=[http://www.changemusic.net/webzine/index.html])
のようなものがそうだ。これは数人で“ウェブジン”を製作し、公開しているウェブサイトで、閲覧は無料なうえ会員登録なども不要である。WEBという媒体で公開されているだけで内容としては“ファンジン”そのものである。さらにファンジンの例にもれず“ディストロ”もオンラインショップというコンテンツで同サイト内において行われている。WEBだと自宅からでも、ライブ会場に足を運ぶ必要や、メールによる通販などを行う必要もなく様々な人間が気軽に読める点が大きな利点であろう。このサイトの場合は広告が無いが、少し広告を載せれば収入もとれるであろう。そして大量に印刷する手間や費用もかからない。こうすると便利なことばかりにも思えるが、ではファンジンを作成する人々はなぜ多くが紙媒体で作るのか?前述した“夜音車”というファンジンにそのあたりに深く関係する記述があった。
“夜音車(やおんしゃ)”は、企画・編集・発行などをほぼ一人で全て行っていて、手作業で印刷されたと思われる普通の白いコピー用紙をホッチキスで留めてある原始的な作りである。内容はライブレポートやアーティストへのインタビューもあるのだが、紙面におけるコラムの占める割合が極めて多い。また、音楽以外のテーマの連載も幾つかあり、そのような連載コラムなどは発行人が他者に依頼して書いてもらっているものが多い。しかし冊子全体の内容の半分以上は発行人の文章である。文字は縦読みで、文章も含め他のファンジンとは一線を画す知的で文学的な雰囲気が全体的に漂っている。その発行人の文章にこのような部分があった。

 “BLOGの隆盛によって訪れた一億総ライター時代な現代、あまりにも簡単に書き捨てられ、ただのキーワードの羅列にしかなっていない批評を読むと、「シーンの規模」という当然の壁に押し潰された、空虚な敗北感すら感じます。そのバンドがどんな生い立ちをもっているのか、どんなバンドに似ているのか、そんなデータは想像を膨らませる上でもちろん重要なものです。しかし、それらと同時に、その作品とその社会、そしてその作品とリスナーである自分との「関係」の存在を、決して無視することはできないと思っています。僕がこの『夜音車』と名付けられたファンジンの中でやりたいのは、まさにこの「関係」をあぶり出すことに他なりません。これは視覚的な面も含め、現在のWEB型の批評ではなかなか成立しづらいものであり、このような紙媒体でこそもっとも効果を発揮するのではないかと僕は睨んでいます。” ※夜音車第一号「夜音車創刊にあたって」文・頓宮敦より抜粋

 “僕がこのファンジンでやりたいのは、あくまで関係性を炙り出すことだと思っている。----中略----ただ、こういった批評の前提には、ハードコアとかパンクとか言われる音楽が、実はかなり関係性を重視した音楽だということが言えると僕は思う。単純に影響を与える/与えられるの関係もそうだし、お互いの活動をサポートしあうだとか、プレイヤーとオーディエンスの壁をなくすだとか、とにかく事あるごとに互いに関係しあっているのが、パンクなんじゃないかなぁと思っている。” ※夜音車第二号「編集後記」文・頓宮敦より抜粋

 「関係性」。まさに“ディストロ”などの行為に象徴されるような、音楽を通じた「人」と「人」とのつながりのことである。事実この発行人も“ディストロ”を並行して行っている。前述のように「シーンの規模」が小さいため、このような小さなシーンの情報源は数少ないレコード店やWEB、もしくはライブハウスや口コミでしかなかなか得られない。そのためにお互いの活動のサポート(その一環として“ディストロ”など)を行ったりする事により、音楽を共有するもの同士の「関係」が深まっていくのである。そして、彼らはそれを望んでいるのである。

 また、こんな記述もあった。

 “時代とともにファンジンのような紙媒体が担う役割は変わってきているし、事実海外では使い勝手のよいウェブジンがかなり出てきている。でも、こうやって僕の手のひらに乗った昔のファンジンを眺めていると、そういった利便性だけでは代替しきれない何かがある。”
 “このファンジンはあくまで回覧板みたいなものなのだ。この回覧板が届く「町内」は果てしなく広いし、誰もがこの回覧板に意見することができる。とにかく僕は閉じたメディアには絶対にしたくない。”
 ※ともに夜音車第二号「編集後記」文・頓宮敦より抜粋

 紙という媒体で、目に見て手に取れる「もの」として残す事にも重きを置いているのであろう。その紙という媒体を通じて、ライブを通じて、そしてそれを販売する機会をも通じて、人と人との関係性を求めているのだ。
 アーティストとファンジン作成者との関係は、「演奏者」と「ファン」というよりはほぼ対等な関係である。ファンジン作成者が企画者となって好きなアーティストを集めてライブイベントを行ったり、アーティストがファンジンを“ディストロ”したりする過程と結果においてファンジンは音楽シーンの活性化には確実につながっているし、ライブを見て聴くだけでは得られない情報だけではなく、つながりをも生み出しているのである。


小坂 麻美

「X」(「X JAPAN」)

 「X」は、1982年に結成されたロック(へヴィメタル)バンドである。彼らの持つ独特なスタイルはカリスマ的人気を生み出し、「ヴィジュアル系バンド」を代表する、いわゆる先駆者的存在であった。リーダーでありドラムとピアノを担当するYOSHIKI、ヴォーカルのTOSHI、ギターのHIDE・PATA、ベースのTAIJIの5人で活動を行ってきた。インディーズ時代から「X」は、作品のすべてを自らのプロデュースで手がけるという実力派バンドでもあった。1989年にアルバム「BLUE BLOOD」でメジャーデビューし、一年で60万枚のセールスを記録したのち、トップバンドへと上り詰めたのである。人気絶頂期であった1990年前半には、日本武道館や大阪城で大規模なツアーライブを行い、さらに日本人アーティストとして初の東京ドームライブ3DAYS公演を実現させ、ますます人気は高まっていった。しかし同じ頃、ベースのTAIJIの脱退により、代わってHEATHが加入し、間もなく「X」は「X JAPAN」と改名したのである。その後、世界進出をも実現させた彼らは、1997年の解散まで、変わらず音楽活動を多忙に行っていき、東京ドームでの解散ライブで幕を閉じたのである。1990年代のヴィジュアル系ロックバンドを代表する「X」(「X JAPAN」)は解散後、リーダーのYOSHIKIが「X JAPAN」は2000年に再結成すると発表したが、1998年のHIDEの死去によって、もう2度と結成されない「伝説のバンド」となったのである。(http://ja.wikipedia.org/wiki/X.JAPAN)(http://www.Xjapan.la/ever/index.html
 Xは90年代のビジュアルロックバンドブームを巻き起こしたバンドとして知られているが、そもそもXが人気となった理由はどこにあるのだろうか。まずはXを作り上げたリーダーYOSHIKIの存在について述べよう。
 YOSHIKIはインディーズ時代、有限会社として自身のレーベル「EXTASYレコード」を設立させた。アーティストとして自ら創設したインディーレーベルからは、LUNASEAやGLAYなど、90年代の人気を誇るビジュアルロックバンドを生み出した。YOSHIKIは数々のバンドをプロデュースしながら、Xの活動も自分が中心となって行っていった。XはEXTASYレーベルでのデビューアルバム「VANISHINGVISION」を成功させた翌年にはメジャーレーベルと契約した後、発売したアルバム「BLUEBLOOD」、シングル「紅」「ENDLESSRAIN」の大ヒットにより、人気バンドへと上りつめたのである。(http://ja.wikipedia.org/wiki/X.JAPAN
 YOSHIKIは数あるXの曲のほとんどを作詞、作曲している。X人気の理由の一つとして挙げられるのは曲であると考えられるが、その曲の一つ一つにYOSHIKIのこだわりがあるのだ。まず、Xの曲は、音楽的にメタルナンバーとバラードナンバーに分けられる。メタルナンバーは「BLUEBLOOD」「SilentJealousy」「DAHLIA」、バラードナンバーは「ENDLESSRAIN」「Tears」「ForeverLove」などが挙げられる。YOSHIKIはメタルナンバーではドラムを演奏し、バラードナンバーではピアノを演奏する。中には「RustyNail」など、メタル調の曲の中にバラードの要素を取り入れた曲もある。Xはこのように2種の曲を交互にバランス良くリリースしていったのだ。
 インディーズ時代のXはパワフルなメタルサウンドとYOSHIKIのドラムテクニックにより、ロック好きの少年達に人気があったが、メジャーデビュー以降にさらに人気を高め、高い年齢層の人や女性からの支持を獲得できたのは、美しいバラードナンバーのおかげだったといわれている。(「ヴィジュアル系の時代p133」)私もその意見には賛成である。現に、Xは後期になるにつれてバラード調の曲が増えている。バラードの曲にはクラシック音楽を取り入れたものもあり(「ROSEOFPAIN」)、そんな美しいメロディーに聴き入るものが増えていったのではないであろうか。
 このように2種の音楽を作り上げてきたXであるが、歌詞にも注目していきたい。まず、YOSHIKIの作る歌詞は、英語と日本語の両方が使われている。「ALIVE」「StabMeInTheBack」のように英語だけで書かれたものもあれば、「WEEKEND」「RustyNail」といった日本語が中心となった曲もある。しかし日本語だけという曲は一つもない。そこにもYOSHIKIのこだわりというものが現れているのだ。また、歌詞の内容ではメタルとバラードで少し異なる部分がある。サディスティックで悲劇的な愛の結末を書いたメタルナンバー、失恋によって心に傷を負った者の夢のような恋の終わりを書いたバラードナンバーの2つがある。内容は異なっているが、いずれも「愛」を歌っていて、ハッピーエンドで終わることはない。(「ヴィジュアル系の時代p142」)曲の一つ一つにはYOSHIKIの過去の経験の一部や感情を表したものがあり、ファンは恐らくそういった部分にも注目して聴いているのであろう。
 Xの曲は、他にはないサウンド、詩、曲を創作するという自己表現の結果からでき、YOSHIKIの独自性の現れであると考えられる。音楽的観点、詩的観点の両方からみても、XにとってYOSHIKIの存在は、なくてはならないほど大きなものであったのではないであろうか。
 曲の良さからのX人気は確かなものであるが、Xのパフォーマンスにも注目すべき点があると思うのだ。Xはコンサートを行ったり、TVなどに進んで出演するなど、メディア進出に力を注いでいた。そういった場面でも、ファンや視聴者に対して激しいパフォーマンスをみせ、強いインパクトを与えた。ここでは「X」の時と「XJAPAN」の時で多少違いがあるためXとXJAPANを分けて述べていきたいと思う。
 まず、パフォーマンスとしてのXとXJAPANの大きな違いは、派手な化粧と衣装、髪型といった外見の部分である。Xの時にはメンバー共々、金や赤の色鮮やかな髪を逆立て、イギリスのへヴィメタルバンドをイメージするような衣装であった。YOSHIKIとTOSHIは学生時代KISSのファンであり、KISSの影響を大きく受けている。デビュー当時はまさにKISSをイメージした格好がわかりやすく表現されている。YOSHIKIはそんな中、バラードナンバーではバラの花やレースの飾りがついたドレスを着るなど、いわゆる「お姫様ルック」をし、メタルナンバーで激しくヘッドバンキングする時とのギャップでファンの注目を集めていた。彼らはそういったXのシンボルである衣装により、Xファンではなく「コスプレファン」にも支持を得たのである。
 そんなXはデビュー当時の頃イメージ通りに、ライブハウスで暴れ、居酒屋で乱闘騒ぎを起こすなど、「暴れX」として知られていた。時にはライブ中にメンバー同士と喧嘩になり、楽器を破壊し、急遽ライブが中止になってしまうこともあった。また、バラエティー番組に出演するなど、Xはある意味個性派バンドだったと考えられる。さらに、髪を逆立てたままNHK紅白歌合戦に出場し、東京ドームでのライブを成功するなど、多くの人たちに衝撃を与え、支持を得てきたのである。当時のXは格言通り、不可能とされる事を可能にするバンドであったのである。(http://tokyo.cool.ne.jp/pinktokage/kamaHP/4shou.html
 東京ドーム3DAYSライブを終え、XはXJAPANに改名されると、大きな変化が訪れたのである。まず、ルックスの面では、メンバーのほとんどが髪を切り、髪を下ろすなど、「激しい」というイメージであったXが、年々大人しくなっていった。XJAPANは「美しいX」を演じ、現在のヴィジュアル系バンドに繋がる流れを作り出したのである。さらに「暴れX」を支持する観客が新しい刺激を求めてくるのにこたえ、次第にルックスやパフォーマンスに変化を示すなどして、新たな刺激をファンに与えていったのだ。YOSHIKIはXJAPANにかわる頃から「激しさ」より「エレガントさ」を求め始めている。他のメンバーに関してはポップさを求めたり、ナチュラルに近づけたり、ロックを極めたりと、YOSHIKIとはまた違った方向に進んでいったのだ。
 XJAPANはそんなバラエティーに富んだバンドだからこそ、少数の一部のファンを除いて、いつまでもファンの心をつかんでいたのであろう。(http://tokyo.cool.ne.jp/pinktokage/kamaHP/4shou.html)確かにそうであると思う。常に新しいことを求め、ファンに刺激を与えることでバンドのインパクトも大きくなるだろうし、新たな支持者が増えることも考えられる。XJAPAN人気の秘密はそこにもあるのだと考えられる。
 一方、音楽性についても変化が見受けられる。Xはハードロック、クラシック、ポップス、エスニックの要素が交じり合い、それでいてバランスのとれた音楽を作り上げてきた。しかしそれが、アメリカンハードロックを支えていたTAIJIの脱退によって崩れてしまったのだ。さらにYOSHIKIの体調不良などにより、XJAPANはオーケストラの入ったクラシック調の楽曲を主に世に出していったのである。そういった中でも「RustyNail」や「DAHLIA」といったメタルの要素を取り入れた曲をリリースし、ツアーライブでの成功を収めるが、やはりその後もバラード調の曲が多くなってしまっていた。ルックスだけでなく曲調までもが大人しくなってしまったXに不満を抱くものも現れ、ファンをやめる者も出始めた。(http://tokyo.cool.ne.jp/pinktokage/kamaHP/4shou.html
 このようにXJAPANでは大きな変化が見られるが、その後の人気は途絶えることは無かった。これらの様々な変化を含め、X、XJAPANは常に他にはないバンドを作り上げることを意識していたのだ。それはルックスであり、パフォーマンスであり、音楽性でも表現されている。いまでもX、XJAPANのファンは数多く存在し、そのほとんどが「X以上のバンドはいない」という。YOSHIKIの存在と、メンバー一人一人の個性と魅力がX、XJAPANの最大の魅力を引き出したのであろう。また、Xは未来のバンドマンたちの目標となり続けるに違いない。ヴィジュアル系ロック界の頂点に立ち、人々を魅了してきた伝説のバンド、それが「X」なのである。


小松 将也

すぎやまこういち


 私は、すぎやまこういちを題材として取り上げて、作曲家とゲーム音楽(ドラゴンクエスト)との関わりについて調べてみました。 彼のことを研究してみようと思ったわけは、今の時代、ゲーム音楽というひとつの音楽のジャンルが確立してはいますが、そのような世界に身を置いている人達については、あまり知られていないというのが事実でしょう。そんな中、すぎやまこういちというひと際目立った存在の人物がいるのを思いだし、彼について無性に研究してみたくなったというのが本音です。
 山田先生が音楽文化論の授業で流していたドラゴンクエストの音源(家に同じものがあります)をはじめとして、すぎやまこういちという人がどのようにしてこれらの曲をつくり、またオーケストラ風のゲーム音楽というジャンルの音楽を確立してきたか?ということなどについて、インターネットや著作物を中心とした資料の中から研究してみました。
 もともとドラクエシリーズが好きだったということもあり、良い機会なので、現在発売しているドラクエ1から8のうち1・2を買ってプレイし、自分なりに音源にも注意しながら内容を確認してみました。

そもそも「ドラゴンクエストシリーズとは」
 「ドラゴンクエスト」 は、エニックス(現スクウェア・エニックス)より発売されたゲームソフトです。ジャンルはRPG(ロールプレイング)。
 このシリーズの第一作目から最新作のドラクエ8(2004年発売)まで、発売されるたびに世間を騒がし、ニュースになったり、発売日の前日からファンがお店の前で待ったりと(最近では、予約ができたりするのであまりないかもしれません)、日本はもちろんのこと、世界でも爆発的な人気を誇っているゲームソフトなので、テレビゲームを全くやらない人でも、その存在自体は知っていると思います。
 ちなみに私は、趣味のひとつがゲームをすることなので、この「ドラゴンクエストシリーズ」は1から8まですべて持っています。(ファミコン版はひとつもありませんが・・・)

何故そんなに人気があるのか?

 この「ドラゴンクエストシリーズ」が、なぜそんなに人気があるのか?ということについて、ゲームの内容やシステムは抜かして自分の知っている情報で考えてみた限りでは、第一に、このゲームのキャラクターデザインが鳥山明だからであると思います。鳥山明といえば、いわずと知れた、あの日本を代表する超人気漫画「ドラゴンボール」の作者です。この方が、毎回の「ドラゴンクエストシリーズ」において、人物キャラクターをはじめ、モンスターのデザインまでも担当している!ということが、人気の一要因と考えられます。
 二つ目の理由として、このゲーム音楽の作曲を担当しているのが、今回取り上げた人物であるすぎやまこういちだからだと思います。名前ぐらいは知っている人がほとんどであると思いますが、それもうなずける話で、彼は、ゲーム音楽界の中では植松伸夫という人物と並び、「二大巨匠」と呼ばれているほど有名な方だそうです。

すぎやまこういちの音楽

 さて、ここからが本題となります。すぎやまこういちという人物がゲーム音楽界において、「二大巨匠」といわれているということは前述の通りなのですが、彼はもともとゲーム音楽の作曲家ではありませんでした。
 彼はテレビゲームをすること自体はもともと好きだったようなのですが、昔は主にオーケストラよりのジャンルの音楽の作曲を手がけていたようです。
 そもそも彼は、学生時代に専門的な音楽学校に通っていたわけではなく、東京大学教育学部の教育心理学科の卒業生です。 そして卒業後もすぐには音楽への道には進まず、文化放送やテレビ局で働いた後に、中年になってからほとんど独学で作曲家になられたようです。
 今回、すぎやまこういちを調べるにあたって、ドラゴンクエストシリーズが発売される前に書かれた、「すぎやまこういちの体験作曲法」という本に目を通してみました。
 さすが題名に作曲法と書いてあるだけの事はあり、よくその辺に売っている音楽書のように、本の中には様々な曲の楽譜の一部が載っており、それについて多少専門的な説明がされていました。
 余談になりますが、こと私の音楽の楽譜に関しての知識は、はっきり言いますとかなり危ういです。小学校で習う程度の音符ぐらいしか理解できないと思います・・・。
 そんな私がこのような作曲の本を読んでみても、何も理解することができないではないか!と思われる方もいるかもしれませんが、実際この本を読んでみて、適切な表現ではないかもしれませんが、ちんぷんかんぷんだ!という気持ちはほとんどなく、何というか充実感のようなものを感じました。
 伝わるかわかりませんが、あの「本を一冊読みきったぞ!」というような充実感です。
 何故そのような気持ちを感じたのでしょうか?きっとその理由は、この本がそこいらに売っている音楽書とは訳が違う!と自分の中で感じたからでしょう。
 この本の中で、それぞれの楽譜に関する専門的な説明がある程度述べられていたのは確かな事なのですが、その合間に自分の体験談や知識、そしてそれぞれの楽曲を演奏したときの様々な効果や人々の反応等が、私のような音楽初心者でも理解する事ができるように、とてもわかりやすく述べられていました。
 作曲法と題名には書いてありますが、「すぎやまこういちの音楽観」というような感じで、自分の音楽に対する気持ちを本音で語っている部分が文章の中で随所ありました。
 すぎやまこういちのように、強い冒険心を持った人だからこそ、プレイヤーの一人ひとりが「ドラゴンクエスト」という壮大な物語をおりなすうえで、重要な要素の「ミュージック部門」を担当することができるのだなと思わず納得してしまいました。

すぎやまこういちと植松伸夫

 ここまでの説明で、すぎやまこういちという人物がどのような人であるのか?ということについてはある程度はわかって頂けたかと思います。
 そこで、先ほど話の流れで名前が出てきたゲーム音楽界の「二大巨匠」といわれているもう一人の人物、植松伸夫と比較して少し考えてみたいと思います。
 植松伸夫という人について簡単に述べてみますと、ドラゴンクエストの発売元でもあるスクウェア・エニックスという会社に最近まで勤めていて(一昨年の年末に退社して新たな会社をたちあげたそうです)、日本のゲーム産業においてドラゴンクエストと並ぶくらいに人気を博すソフト、「ファイナルファンタジーシリーズ」の中でのゲームミュージックの数多くを担当されている方です。
 彼もすぎやまこういちと同じように、学生時代に大学で音楽を専攻していたわけでもなく、また特別な音楽教育を外で受けていたわけでもなかったようです。
 しかも驚いた事に、植松伸夫は、すぎやまこういちのようにいろいろな会社を渡り歩いた経験はほとんどなく、大学卒業後わりとすぐに株式会社スクウェア(現スクウェア・エニックス)に入社されたそうです。
 ここまで話してみて、ゲーム音楽界の「二大巨匠」と呼ばれているような人物の二人ともが、学生時代くらいまで特別な音楽教育を受けてこなかったという事実に対して、私はとても驚きを覚えました。ゲーム音楽を作るというのは、製作者の生き様や個性が深く関わり、そしてなんと言ってもつくる人のセンスが問われる職業なのではないでしょうか。
 私は、「ドラゴンクエストシリーズ」と同じくらいに「ファイナルファンタジーシリーズ」も好きなのですが、ことゲーム音楽に関して言えば、「ドラゴンクエストシリーズ」よりも「ファイナルファンタジーシリーズ」の方が毎回楽しみにしています。
 その理由は、「ドラゴンクエストシリーズ」の音楽がオーケストラ風で壮大なイメージに対して、「ファイナルファンタジーシリーズ」は神秘的で安らぐようなイメージの曲が多いからでしょう。
 ちなみに、ドラクエの曲はすべての曲をすぎやまこういちが担当しているのに対して(初期の頃はわかりませんが)、ファイナルファンタジーの曲は、植松伸夫が製作者の中心的な人物であるのは間違いないと思うのですが、ゲーム音楽担当者が複数いて、共同でひとつの曲を作ることあり、一人でひとつの曲をつくることあり、といったような状況のようです。
 今回、お二方のホームページなどを見てみて、二人ともゲーム音楽をつくるという仕事にかける情熱が半端なものではないなと思いました。
 「好きこそ物の上手なれ」という言葉がぴったりなお二方ではないでしょうか。

全体を通して

 今回すぎやまこういちという人物を研究してみて、ゲーム音楽に対する考え方が多少変わったような気がします。
普通家でテレビゲームをやっている時に、その音楽を気にしてプレイする人はあまりいないでしょう。しかし、今回すぎやまこういちの書かれた本を読んでみたり、植松伸夫との比較研究の中でお二方の担当される音楽を聴いているうちに、今度「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」をプレイするときには、あの場面のあの音楽をしっかりと聴いてみよう!という気持ちになってくるので不思議です。
 ひとえにゲーム音楽といっても、PS2やXボックスでクオリティの高い音が再生できる今のゲーム音楽は、ほぼオーケストラ風の曲調のものが多いかと思います。
 まさに、今回調べたすぎやまこういちが担当する「ドラゴンクエストシリーズ」がそれに当てはまり、ゲーム音楽のことを何も知らない人にドラゴンクエストの曲を聴かせてみると、たいていどこかの交響楽団によるオーケストラの曲である!と答えるでしょう。
 しかし、そんな話もまんざらではなく、二年位前に私がオーケストラを聴きにいったときに、「ドラゴンクエストシリーズ」でもっとも有名な曲の、「序曲のマーチ」がプログラムに組み込まれておりました。本当にオーケストラの一部といったような感じで(まさにそうなのですが)、全く違和感がありませんでした。むしろその場にとてもふさわしい曲に感じました。
 すぎやまこういちほど、趣味と実益を兼ねて人生を有意義に過ごしている人は、そうそういないでしょう。実にうらやましいお人です。すぎやまこういちにとってのドラゴンクエストのように、自分にとってかけがえのない存在のものを、私もこれからの人生で見つけることができるよう努力してゆきたいと思います。

[以下、元のレポートにあるスクウェア・エニックスのサイトからの資料引用は、掲出しません]


渕上 尚悟

日本のポピュラー音楽におけるジェンダー交差歌唱

1、序文

 本レポートで扱うジェンダー交差歌唱(以下CGP)に関しては「鳴り響く性 日本のポピュラー音楽とジェンダー」(著・北川純子 1999 勁草書房)内の論文「転身歌唱の近代」で既に中河信俊氏が論じておられるので、これを参考にさせていただきながら現 代のCGPについての考察をしていきたい。
 直、ここでいう現代とは中河氏が主に論じられた戦前期ー90年代前後以降の時代を指し、それ以前の時代は自分にある程度親しみのあるニューミュージックがポピュラリティーを獲得した70年代〜第二次バンドブームの最中にあった90年代前後までと限定した。ニューミュージックの定義は曖昧だが、ウィキペディアの「強いメッセージ性、社会性を持ったフォークをルーツとしながら、より洗練され、それでもなお歌謡曲とは違う音楽」を一応の指標とする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF ウィキペデイアより引用)

2、これまでのジェンダー交差歌唱

・日本のポピュラー音楽の中のジェンダー

 日本のポピュラー音楽において、楽曲に付与されるジェンダーは非常にはっきりしていた。その理由として、まず歌詞に用いられる日本語の特徴が考えられる。具体的に用いられるものが日常生活で使われる「話しことば」であり、これには自己を示す一人称(「俺」⇔「私」)、相手を示す二人称(「お前」⇔「あなた」)などの人称代名詞や、終助詞(「〜だ」、「〜ぜ」⇔「〜わ」、「〜よ」)に見られるように、言葉そのものにジェンダーが付与されている。
 社会学者ゴフマンが論じたパフォーマンスを行う人物が個人ッ演者ッ登場人物(役柄)の三重の自己を持つという構造からすれば、ポピュラー音楽の歌い手の自己は全て同じ性であることが多いと考えられる。これに反するのは後に詳しく述べるCGPか、登場人物(役柄)が存在しないナレーション形式の歌であろう。少なくとも楽曲内の言葉とその言葉を使用している対象を辿ればジェンダー化は限りなく容易なものとなる。
 もう一つの根拠と考えられるものが、歌われる内容そのものが持つジェンダーである。高いポピュラリティーを誇るアーティストの具体的な例を挙げていくと、男性はニューミュージック期に歌われた吉田拓郎「人間なんて」の激しさや泉谷しげる「春夏秋冬」の人生観、RCサクセション「甲州街道はもう秋なのさ」のドライな孤独感、といったように相互分離、能動的な内容が多く、女性は山口百恵や岩崎宏美などのアイドルをはじめ、荒井由実のヒット曲「やさしさに包まれたなら」「卒業写真」でも歌われているように、夢見る少女的、受動的な内容が目立つ。このことから日本のポピュラー音楽において、ステレオタイプ化された男性像、女性像が意識無意識に関わらず含まれていたと言えるだろう。
 そのような流れの中で、一つの異彩を放っていたのがCGPであった。冒頭で述べた「転身歌唱の近代」によるとその定義は「歌のシナリオである歌詞のジェンダーと歌い手のジェンダーが一致していない歌唱」であり、ゴフマンの演劇論を用いたうえで「演者と登場人物(役柄)のジェンダーが一致していない歌唱」としている。この歌唱は主に演歌に見られることが多く、日本の演歌について論じた人類学者ヤノの「一民族の涙を形作る」ではジェンダー表現がステレオタイプ化されやすいポピュラー音楽の中で、「ある歌において存在する三重の自己の性が違っていても、パフォーマンスとして理解される」という日本特有の文化が働いている結果だと述べている。そしてこのような文化的措置は演歌に限るものではなかった。その実証としてまず70ー80年代前後のニューミュージック期、次いでそれ以降ー第二次バンドブーム前夜のJ-POP、ロック期とそれぞれの時代をリードしていたポピュラー音楽と絡めながらCGPの検証を試みた。

・ニューミュージック期のCGP

 ニューミュージックの特徴は、従来の強いメッセージ性、社会性を持つフォークソングに比べ歌われる内容において個人的なものが目立ち、特に恋人とのふたりの関係に重点を置いたものが多くなっている。そして特筆すべきなのが、最もCGPが大量に生まれた時期だということである。
 CDアルバム「ベスト・フォーク100曲〜青春のFolk&Pops〜」(東芝EMI)を参考にし、主に収録されているアーティストの楽曲を調べたところグレープ「精霊流し」、かぐや姫「神田川」、アリス「帰らざる日々」、小椋佳「少しは私に愛をください」、イルカ「雨の物語」等のCGPを確認した。これらに顕著なのは、男女に限らずクロスしたジェンダーがステレオタイプな内容である、ということである。
 上に挙げた楽曲の内容を端的に述べると、順に「男のやさしさから感じる同棲生活への不安」、「別れの後の幸せな日々への依存」、「自分が愛したから、自分も愛してほしいという相互依存的欲求」、「別れの日に降る雨を『似合いすぎてる』と表現できる客観的な心情」となる。これらを性差心理学と比較すると(http://iwao-otsuka.com/fm/indexfm.htmより引用)、それぞれの性のキーワードである「女→受動的、相互依存、甘え、依頼心」、「男→ドライ、能動的、自立心」とほぼ合致する。
 このことから、ジェンダークロスが常態ではないポピュラー音楽シーンの中であえてジェンダーをクロスさせ、男(女)がいかにも女(男)らしい内容を歌うことにより、楽曲にトリッキーさ、意外性が生まれることを大なり小なりアーティスト(作詞者)側が意図していたと考えられる。

・アイドル、ロック期のCGP

 80年代、アイドルブームが到来し松田聖子や河合奈保子・柏原芳恵、さらに人気テレビ番組『3年B組金八先生』の生徒役だった(たのきんトリオの)田原俊彦・近藤真彦や三原順子などが相次いで歌手デビューした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/1980%E5%B9%B4 ウィキペディアより引用)
 一方ではより欧米の影響を強めた、サウンド指向方の音楽も流行した。取り分け新しい動きとして、ロックのポピュラリティー獲得が挙げられる。BOmWY、ブルーハーツ、RCサクセション、SION、レベッカらがその代表である。
 そしてこれらに共通するものとして、形の違いはあれ「自己の性(セックス)を表に出す」という特徴があった。
 前者のアイドルは、人類学博士の青柳寛によれば「芸者の現代版であり、理想的な女性(男性)の美が高度に型にはめられたもの」であり、社会におけるセクシャリズムのシンボルであった。(参考 英語版wikipedia http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_idol
 後者のロックは「男の美学的共同体」としてバンド形態を取ることが多く、攻撃的なサウンド、それによって生み出されるパワーが表すように男性性の象徴としての意味合いが強い。中にはレベッカやシーナ&ロケッツのように女性がメンバーに含まれる場合もあるが、それはかえって女という性を際立たせることにつながる。現にそれらのバンドはロックにポップさを加えることで大衆に認知された。
 また、80年代を文化的側面から捉えると女性の社会的な立場の向上が叫ばれた時代でもあり、男女平等の思想から女性によるステレオタイプではない女性像が歌われたことも記しておく。しかしその結果登場した女のみで構成された、硬派な、不良性の高いロックバンドであっても性が際立つことに変わりはなかった。(参考 井上貴子 「逸脱」を演じるッ女の子バンドからみた<ロックと性>)
 このような流れの中で、とりわけ「性をクロスさせる」という表現方法であるCGPはニューミュージック期に比べ勢いを失うものの、徳永英明「Rainy Blue」、薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」安全地帯「碧い瞳のエリス」シーナ&ザ・ロケッツ「ボニーとクライドのバラード」、SION「ダーリン」等の例が見られる。特に今まで見られなかった新しい傾向として、ロックの男性ボーカリストによって歌われた女の「娼婦性」がいくつかあった。恐らくロックが持つ反抗性、不良性に起因するものと考えられる。

3、現代の国内ポピュラー音楽におけるジェンダーのあり方

・90年代ーことばの変化

 現代のポピュラー音楽にも大きな影響を与えたと考えられるのが、主に女性が使用する言葉の変化である。ここでは「女のことばの文化史」(遠藤織枝・学陽書房)を参考にし、現代の言葉に対するジェンダーの変化について考察する。
 「女のことばの文化史」によれば、最も変化が顕著なのは話し言葉の語尾である。もともと男性の言葉であったものが女性にも使われるようになった例として、詠嘆を表す「〜かなあ」、「〜な」、「〜ぞ」、「〜ぜ」、逆の例としては「〜の」「〜じゃない」「〜のよ」、名詞に接続される「〜ね」等が紹介されている。要するに、現代の日本においては女性の言葉が男性化し、(女性ほどふり幅は大きくないが)男性の言葉が女性化することで言葉のジェンダーが弱まりつつあるのだ。そしてそれを主導してきたのが、女性なのである。
 NHKが1986年に行った調査では「人々の近ごろのことばづかいについてどんなことを感じるか」の問いに対し上位から「おかしな話し方が多くなった」、「女性の言葉が荒っぽくなった」という結果であった。同調査は1980年にも行われていたが、当時は「女性の言葉が荒っぽくなった」が最上位であったことから考えると6年の期間を経て社会の中にその荒っぽい言葉が受け入れられつつあったと考えられる。1986年から20年近く経過した今日においてはもはや浸透しているといっても過言ではない。
 これは1995年の文化庁による「国語に関する世論調査」(16歳以上の3000人が対象)において実証されている。調査の内容は男女のことばづかいの違いがなくなっていることについての考えを選択肢形式で撰ぶ形式であり、結果は言葉の性差解消容認派(「違いが無いほうが良い」「自然の流れであり、やむをえない」を選択)が性差存続派を上回ったのである。
 それに関連し、言葉が変化したことの背景として「現代若者ことば考」(米川明彦・丸善株式会社)では次のような原因が述べられている。

・70年代後半以降の高度経済成長が達成されたことにより、従来の男性社会の価値観が否定されてきた
・80年代の女性による社会進出の結果、男性と対等意識を持つに至った。
・恋愛意識、貞操観念が変化し、恋愛をゲームとして楽しむ風潮が生まれたことで男性が女性の装飾品の一部となった。

 これらが示すのは、つまり元来のポピュラー音楽に含まれていた「ステレオタイプ化された男性像、女性像」自体の概念が、歌詞という重要な部分を形作っている言葉の変化によって崩壊した、ということに他ならない。次章ではその事実を具体的に証明するため、現代の女性アーティスト、男性アーティスト両方の視点から考察していきたい。

・女性アーティストのCGP

 前章で述べたように、現代のポピュラー音楽においてステレオタイプな女性像はそれほど見られなくなってきている。それを如実に語っているのが、本来男性の象徴であった「強さ、能動的行動」を歌う女性アーティストの登場だろう。90年代のZARD「負けないで」、岡本真夜「TOMORROW」、大黒摩季「永遠の夢に向かって」といった応援歌に顕著に見られたその傾向は、年を経るにつれて歌詞(言葉)の男性化と共に強まっていく。ここで2001年に発表された宇多田ヒカルの「traveling」の歌詞の内容を検証してみたい。

[元のレポートにある宇多田ヒカルの「traveling」の歌詞は、掲出しません]

 注目すべきなのが前章で触れた、男性化した言葉の語尾である。「揺らせ」「飛ばせ」「時間だ」といった言葉は本来男性のものであったはずだが、恐らくこの歌詞を見て、曲を聴いておかしいと感じる人はほぼいないだろう。また、この歌詞が女性である宇多田ヒカルによって歌われている事実を伏せた場合、男の心情と女の心情どちらを表しているか判断できるだろうか。使われている言葉からも、その内容からもどちらともとれるような印象を受ける。厳密に言えば、略した部分に一箇所だけ「いやよ」という単語が出てくることから女性の心情を歌ったものであると判断可能なわけだが(「いやよ」という言葉も今日では状況如何によって男性が使用していても不思議ではないので断定は出来ないが)、この歌に限らず現代のポピュラー音楽においてはジェンダーを識別することが非常に難しい、いわばユニセックス化した楽曲が多々見られる。それはすでに述べたとおり歌われる内容や言葉の語尾の男性化によるものであるが、他に人称の変化も考えられる。
 「転身歌唱の近代」では、最近のポピュラー音楽の傾向として渡辺美里や渡辺満里奈らが一人称に「僕」を用いていることが言及されていた。この「僕」は先の宇多田ヒカルの楽曲にも見られ、加えて二人称には本来男性言葉であった「君」が使われている。これは宇多田ヒカルに限らず、浜崎あゆみ(「AUDIENCE」「Duty」)、大塚愛(「スーパーマン」)、倉木麻衣(「Feel fine!」)、中島美嘉(「WILL」、「FIND THE WAY」)らの人気アーティストから、本来性のシンボルであるアイドルの松浦亜弥(「草原の人」)、モーニング娘。(「THE マンパワー!」「ここにいるぜぇ!」)まで幅広く使われているため、女性アーティストの「僕」と「君」は完全に市民権を得たと言えるだろう。具体的なデータとして、1995年から2004年までの10年間のヒットソング100曲(トップ10×10)のうち、女性アーティストの楽曲全41曲のうち13曲、3割強の楽曲で「僕」「君」が使われている。(参考URL http://www.hitsong.jp/year)結果として、ジェンダー的に曖昧な歌の増加につながったのである。
 これはCGPにも同様な事態をもたらす。CGPにとって最大の特徴は「性をクロスさせる」一種のトリッキーな行為であるが、現代のポピュラー音楽に見られている歌のユニセックス化からすると、たいして普通の(性をクロスさせていない)歌と変わらない、果てはCGPであるとすら認識されないことも有り得るだろう。
 その影響もあるのか、ごく最近の2000年ー2005年の売り上げベスト100に名を連ねている女性アーティストのヒット曲をある程度まで調査したところ、「ジェンダー的にどちらともとれる曲」(※)はかなりの数を確認したが、はっきりCGPであると判明した曲は2001年に発表されたZONEの「secret base〜君がくれたもの〜」のみであった。ここでその曲の歌詞を紹介する。

[元のレポートにあるZONEの「secret base〜君がくれたもの〜」の歌詞は、掲出しません]

 この歌詞と、先に紹介した宇多田ヒカルの歌詞を比較してみるとどうだろうか。使われている言葉(語尾)のみで考えると、後者のほうがより男性的でさえある。その内容を吟味したところで何をもって男/女の視点とするのか、CGPである/ないかを区別するのか非常に難しいところである。この歌詞にしても、確実な判断材料はプロモーションビデオで描かれている内容が少年と少年の友情の物語である、といういわば外的なものであった。これらのことから、もはや女性アーティストにとってわざわざCGPを歌う必要はなくなりつつあるのかもしれない。
 私観だが、逆に最近ではセクシーさを追求した倖田來未、愛らしさを売りにした大塚愛といった「女性的な」アーティストが目立っているような印象を受ける。これが女性アーティストの歌のユニセックス化の飽和を示すのかどうかはまだ何とも言えないが、今後の動向に注目したい。

※「ジェンダー的にどちらともとれる曲」主要リスト
・ZONE「僕の手紙」「証」
・BoA「BESIDE YOU〜僕を呼ぶ声〜」「Rock With You」
・hitomi「SAMURAI DRIVE」
・浜崎あゆみ「duty」「Greatful days」「Humming 7/4」「July 1st」「fairyland」「forgiveness」
・宇多田ヒカル「FINAL DISTANCE」
・倉木麻衣「If I Believe」「Time after time〜花舞う街で〜」「明日へ架ける橋」
・Every Little Thing 「ささやかな祈り」「fragile」「恋文」
・MISIA「Don't stop music!」「名前のない空を見上げて」「星空の片隅で」)
・中島美嘉「WILL」

(語尾、内容を考慮した上で主体=一人称が存在するものを中心に選考した。)

・男性アーティストのCGP

[元のレポートにある平井堅の「瞳を閉じて」の歌詞は、掲出しません]

 上記の歌詞は2004〜2005年にかけて大ヒットした平井堅の「瞳を閉じて」である。映画の主題歌となったこの曲は主人公(男性)の視点で書かれており、内容においても「なくしたものを乗り越える強さ」という男性的な自立心が見受けられるかと思う。すでに女性アーティストの楽曲におけるユニセックス化は述べたが、この章ではまず現代の男性アーティストのジェンダーがどのような変化をしているか論じたい。初めに以下の調査を行った。(関連「女性アーティストのCGP」)

調査目的…1995〜2004年の10年間のヒットソング100曲を歌ったアーティストを性別に分類し、女性/男性の歌がどの程度男性/女性化しているかを調査した。

調査内容…歌詞の内容と使われている言葉(主に語尾、人称)が明らかにジェンダー変化であると判断できるもの、それらが作用していることを前提にどちらの性としても成り立つものを女性/男性→男性/女性化とみなした。
     なお、前章で述べた女性アーティストが使用する「僕」または「君」のように、言葉のジェンダー変化がたとえ1〜2箇所と少ない場合であってもそれぞれ変化ありとした。

注…民謡、インスト、CGP、ジェンダーに関わらない(一人称が存在しない俯瞰視点のもの)と思われるものは排除したため総計は100にはならない。

調査対象曲…ヒットチャートベスト10、全100曲(http://www.hitsong.jp/year

結果…       女性アーティスト(全41曲)  男性アーティスト(全51曲)
ジェンダー変化なし     25曲             46曲 
ジェンダー変化あり     16曲            5曲
変化あり/全曲(%)    39%             10%

 この調査が示すように、女性アーティストと比較して男性アーティストの場合、ジェンダーに大きな変化は見られなかっだ。これは「女性アーティストのCGP」で述べたことと関連するが、それぞれの性が用いる人称の影響もあるだろう。男性アーティストの一人称「僕」⇔「私」は、女性アーティストの「私」⇔「僕」ほど普及していない。恐らく後者に比べて異性の一人称を使用することに対する抵抗が大きいからだと予想できる。(L’Arc〜en〜Ciel「As if in a dream」のように、ビジュアル系と呼ばれるアーティストの楽曲にはCGPではない歌でも「私」という一人称は見られる。)
 それではCGPにおいて、ジェンダーはどのような変化をもたらいているのだろうか。
 2001年に発表された福山雅治「Gang★」から検証してみたい。

[元のレポートにある福山雅治「Gang★」の歌詞は、掲出しません]

 快感を求める「セクシー」な女性像、使用されている言葉(語尾含む)、一人称の「私」と、判断し辛い女性アーティストのCGPと比べて、一目見ただけで確実にCGPと判断できる内容だ。この他にも堂本剛「溺愛ロジック」、ジャンヌダルク「ヴァンパイア」「Dry?」、レミオロメン「3月9日」、ポルノグラフィティ「サウダージ」、ASIAN KUNGッFU GENERATION「サイレン」、コブクロ「エピローグ」、ブリーフ&トランクス「ペチャパイ」、SION「どこに行くんだろう」等アイドルからロックバンドまで幅広いジャンルに見られる。
 これらのCGPにも、ほぼ全てに用いられる一人称の「私」、「〜わ」「〜だもん」「〜のね」等の元来の女性言葉、「受動的、甘え」「セクシー、娼婦的」がイメージされた女性像と言ったように受ける印象は異なるものの、はっきり女性と認識できる共通した特徴がある。
 その点から考察すると男性アーティストにとってCGPの基本的構造はニューミュージック期、ロック/ポップ期、現代とこれまで述べてきた時間軸上においてそれほど変化が見られず、CGP⇔NCGP(ノン・クロスジェンダー・パフォーマンス)の差が小さくなっている女性アーティストとの違いといえるだろう。

4、ジェンダー交差歌唱の行方

 これまで述べてきたことから考察すると、日本のポピュラー音楽の中の1つのシーンとしてCGPを捉えた場合、その内容自体は意外にも大きな変化はしていないと考えられる。むしろCGPを取り巻くポピュラー音楽シーンそのもののジェンダーが、時代ごとに着実に変容している。ロック、ダンスミュージック、ヒップホップと欧米の影響を色濃く受け変わり続けるポピュラー音楽と、その中にあって日本特有の文化措置が変わらず働き続けてきたCGPの対比は興味深い。だが、女性の言葉の変化による女性アーティストのCGPの減少のように、その立ち位置に関しては今後注目すべき事柄と言えるだろう。
 今後のCGPの行方について考える際に重要と思われるものが、音楽における演劇的慣行からの観点である。
 ヤノはゴフマンの演劇論を用いた上で「歌を作る表現主体(個人)、オーディエンスの前で歌う歌手(演者)、歌の世界の主人公(登場人物)の三つの自己を一つに重ね合わせて見る」欧米のポピュラー音楽と、「ある歌において存在する三つの自己の性が違っていても、パフォーマンスとして理解される」日本のそれを差異化した。だが、現代の日本のポピュラー音楽シーンを見る限りでは、「三つの自己が異なる」例が限りなく少ないように感じられてならない。要するに、元来演歌等で多々見られていたその例に対して発動していた演劇的慣行が、対象を失うことで希薄になってきているのではないか、ということである。
 実際に1976ー1980年のヒット曲100曲と、1995ー2004年のヒット曲100の中から「演者と歌の登場人物が一致しない例(CGPを含む。民謡、インスト、一人称のない俯瞰視点の楽曲は省いた)」をリストアップしたところ、前者は14曲、後者に至ってはわずか2曲と、20年ほどの間で確かに減少していることが確認できた。
 このことから、今後のポピュラー音楽において、少なくとも「演者=登場人物」であるという認識が強まる傾向にあると考えられる。その結果、「三つの自己を一つに重ね合わせて見る」欧米の演劇的慣行がそう遠くはない未来において一般化していることも十分にあり得る話だろう。女性アーティストに関してはすでにその傾向が顕著であるが、すでに述べた歌詞(話し言葉)のユニセックス化の影響も含め、CGPの希少化は高い確率で現実のものとなるのではないだろうか。

参考・引用
書籍
「鳴り響く性 日本のポピュラー音楽とジェンダー」(著・北川純子 発行・勁草書房)
「女のことばの文化史」(緒・遠藤織枝 発行・学陽書房)

Web
ウィキペディア(http://ja.wikipedia.org/
女らしさ・男らしさについて(http://iwao-otsuka.com/fm/indexfm.htm
ヒットソング情報局(http://www.hitsong.jp/year
Yahoo!ミュージック(http://music.yahoo.co.jp/
J-Total Music(http://music.j-total.net/index.html

音源
ベスト・フォーク100曲〜青春のFolk&Pops〜(東芝EMI)
青春歌年鑑 90年代総集編(エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ)
青春歌年鑑 80年代総集編(エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ)
SION「SIREN」(BAIDIS)
RCサクセション「シングル・マン」(ポリドール)
荒井由実「ひこうき雲」(東芝EMI)


吉光 雄太

音楽のグローバライゼーション


始めに
 音楽には「地理」がある。(ポピュラー音楽にみるグローバルとローカルの結節点 安田昌弘)確かに僕もそう思う。楽器や歌詞、様式においてその地域特有の音楽が存在する。日本の音楽、と言われたら演歌や雅楽、三味線等を思い浮かべるかもしれない。しかし、それを思い浮かべるとはいかがなものだろうか。実際に日本の音楽を一望してみると殆どがそういった日本の地域性を無視している音楽なのである。グローバライゼーションという不可解な現象が多分僕たちの身の回りに起きているのだろう。今僕が言及したいのはテクノという呼び名が巻き起こした一つの現象について、日本のグループYMOを題材にグローバライゼーションについて論じていきたい。

日本のイエロー・マジック・オーケストラ
 イエロー・マジック・オーケストラ、通称YMOはテクノと呼ばれる音楽を演奏する日本のグループである。シンセサイザーとコンピューターを駆使した音楽で、日本のだけではなく世界でも有名になった。手法面で、その当時は機械を大々的に取り入れることも珍しく、更にライブにおいて手弾きによる生演奏ではなく、自動演奏を組み込んだことも革新的だった。これはプログラマーの松武秀樹による功績が大きい。当時、シンセサイザーやコンピュータを駆使した音楽は既にドイツのクラフトワークが有名であるが、それらの技術を使った音楽はまだ珍しい時代だった。そんな中で表れたYMOは大衆に受け入れられ、日本はもちろん英米でも商業的成功を収め、クラフトワークと共に世界の音楽シーンの流れを大きく塗り替えたとして評された。(wikipedia参照)彼らはテクノの初期のグループだった。しかし彼らを現代のようなテクノ(※1)と呼ぶことは難しかしかった。しかし、僕には彼らと現代の諸テクノとの間に概念上の差は感じられない。つまりここではテクノの真正性を言及したいわけではなく、何故YMOは日本の音楽の要素として受け入れられなかったのだろうか、ということなのである。YMOは様々な文化を吸収しつつ、また様々な各国の音楽を吸収しつつ自らの位置を築いてきた。  日本人的なよさとは黙々と他の文化や様式を丸ごと飲み込んでいき、それをうまく片付けていき、その片付け方に丁寧さを見出すことができる。なんというすばらしいことか!合衆国の文化に囲まれて、イギリスの音楽を楽しみ、イタリア人の楽器を弾き、ドイツの文学を読む。日本のものなんてほとんどない。しかしそんな中で一瞬見せる日本の良さそれこそが日本独自の淡さ、暈し、障子の和紙越しに見える風景なのではないだろうか。国によっては文化生産に特化している国もあり、技術力、生産力に特化している国もある。文化、経済、政治だけを見ていてもきっとその国の独自の良さというものは見えてこない。だから自分の国のよさを発見しなければならない。と長い脱線をしてしまいましたが日本の良さという意味でYMOの存在は大きかったのではないかと思う。最新の技術を用いて音楽を記号的に処理し編集しそれを組み合わせることによって一つの世界を作っていると言う点で優れている。日本のよさとは文化や様式をすんなり解釈できることかもしれない。

テクノとテクノポップ
 主に1970年代初頭から1980年代にかけてとくに流行した、シンセサイザーやコンピュータなどの奏でる電子音の無機質なサウンドを逆に利用して、アナログ機材では作成できなかった新たなポピュラー音楽のスタイルを模索するムーブメントを指す、日本でのみ通用する和製英語。(wikipedia参照) 日本ではクラフトワークの音楽のこともテクノポップと呼んでいた。(※2)サウンド面で現代のテクノとテクノポップはかなり近く、時代はテクノポップのほうが早い。YMOが世界に通用したということはレベルも劣っているわけではない。このことを踏まえると日本のテクノ(ポップ)は海外進出の可能性を持っていると思われる。しかしそこまで大々的に日本が海外進出に積極的だとは思えない。テクノにおいて日本の企業はせっかくの機会を逃してしまったのかもしれない。

最後に
 J−POPが過小評価されている可能性は否めないはずだ。アメリカのポップスが過大評価されてこちらでそれなりの売り上げを達成しているという見方もでき、日本のポップスやJのつくジャンルに売り出されるべきものは沢山あるはずだ。なぜなら音楽に絶対の評価などはないはずだからだ。



(※1)1980年代、アメリカのシカゴでハウスと呼ばれる黒人音楽を基にしつつシンセサイザーやシーケンサーを用いた反復的なビートを特徴とする音楽が黒人やゲイコミュニティの間で隆盛を極めていた。シカゴに隣接する都市で同じく黒人音楽の伝統を持つデトロイトでも1980年代の後半ぐらいからハウスの影響下により新しい音楽の動きが生まれてくる。彼らの音楽はハウスやディスコ音楽の影響を受けつつも、享楽的なハウスやディスコに対し、厳しい現実を反映したシリアスな音楽を志向し、より実験的な音作りに向かい、機会音を重視し、それまで誰も聴いたことのない音の世界を作り出していた。彼らはクラフトワークなどの電子音楽に強い影響を受ける一方、パーラメントなどのファンク音楽にもそのベースラインやSF・未来志向、思想面などで大きな影響を受けていた。
(※2)関西発、伝説のカルト雑誌『ロックマガジン』の79年8月「ロックマガジン」増刊号「MODERN MUSIC」にてクラフトワークを以下のように紹介しています。
 クラフトワークは、マン・マシーン(人間人形)、電子パンク、テクノポップの代表“Kraut Rock Minimalist”と称される、電子時代のネオン・サインやプラスチックと最も融合する、今のディスコ・ミュージックと言われる音の核とも言うべきグループ。
http://allabout.co.jp/entertainment/technopop/より)

豆知識
 「安田昌弘」 1967年、千葉県生まれ。東京都立人文学部卒業後、英レスター大学マスコミュニケーション研究センター(CMCR)に留学、音楽産業のグローバライゼーションと日仏ヒップホップ文化の形成をテーマにした論文で博士号を取得。主な研究はポピュラー音楽、グローバライゼーションとローカライゼーション、音楽と場所、都市空間とメディア空間の相関等。主な論文に「ヒップホップ、近代、ストリート:パリおよび東京のヒップホップシーンに関する一考察。」(2001)、「ポピュラー音楽に見るグローバルとローカルの結節点」(『ポピュラー音楽へのまなざし』所収、2003、勁草書房)、「地図にない渋谷」(『別冊宝島771』所収、2003、宝島社)等。現在、執筆、翻訳業の傍ら子育てに奔走中。フランスに在住。(ポピュラー音楽理論入門 Keith Negusより)

「テクノポップ」 この用語は世界的にはあまり一般的ではなく、世界的にシンセサイザーを多様したポピュラー音楽は「Synth-Pop」と呼ばれているために、日本において「テクノ・ポップ」にカテゴライズされている世界のミュージシャンのなかには、「テクノポップ」という用語の存在そのものを知らないものが多い。近年広く認知されている同種の電子楽器を使用したダンス・ミュージック色の濃いハウスは、総じて単に「テクノ(Techno)」と呼ばれ、海外メディアにおいて「テクノ・ポップ」と言う用語が使われる頻度は極めて少ない(日本においてテクノポップの雄としてあがめられるクラフトワークは日本でのみ通用するこのキーワードを面白がって、後年自分たちの新作のアルバムタイトルを「テクノ・ポップ」にしようとしたほどである)。こうした点から見ると、一見国際的な標語のように思われる「テクノ・ポップ」は、実は近年のアニメの世界における「ジャパニメーション」と同様に、日本国内で好まれる海外進出を意識した、徹底してドメスティックなキャッチフレーズとしてメディア上にねつ造されたものであることが容易に推察される(このキーワードの普及には、日本の大手出版社と大手広告代理店が深く関与しているとする説もある)。(wikipediaより)
 テクノポップのサウンドの起源は「autobahn」kraftwerkなどがあり、シンセサイザーなどの電子系楽器を使用しているという点ではPerry & KinglseyやMartin Dennyといったモーグサウンドと呼ばれるサウンドの嗜好を持った作曲家達からきていると思われます。テクノポップの名称は坂本龍一がつけたなど諸説があります。関西発の雑誌「ロックマガジン」の編集長阿木譲がつけたという説もあります。(http://allabout.co.jp/entertainment/technopop/参照)
 日本のYMO以降のグループではP-MODEL(平沢進ら)、ヒカシュー(巻上公一ら)、プラスチックス(中西俊夫ら)がテクノ御三家と呼ばれテクノポップに位置づけられることが多いですが、テクノポップは、「ヴォーカルよりも、電子音をメインとし、単純な反復リズムに、無機質なサウンドで展開を見せていく」となってあいまいなものとなり様々なジャンルから積極的に取り入れられ音としての判別は難しくなった。その後、アイドルもテクノの伴奏に歌を歌うスタイルなどが確立し、その後「テクノ歌謡」と呼ばれた。当初は打ち込み演奏+生演奏でニューウェーブやテクノを意識したものを特別にカテゴライズしていたが、その後打ち込みが一般的になってくるとこの名称は使われなくなった。(wikipedia参照)





丸茂 弘一

ニルヴァーナの音楽は本当に商業主義的ではなかったのか?

はじめに

 ニルヴァーナを語るときによく耳にするのは、商業主義的な音楽ではない、メディアへの露出が少なく謎めいた部分がかっこいいということである。現在も存在するwebのファンページを見ても「利益を考えない音楽への姿勢が素晴らしかった。」や「それまでのビジネス化した音楽を否定した。」などといったことが語られている。確かに表面的にはそうなのかもしれないし、自分自身も今までそうだと思っていた。しかし、本当にそうだったのだろうか?バイオ本、雑誌、発言集を読んでいると必ずしもそうだったとは思えないところがいくつかある。そういったところを考えていきたいと思う。

1.ニルヴァーナのCDリリース状況

 まず、ニルヴァーナの結成からインディーズデビューまでみていきたいと思う。
 ニルヴァーナは1985年ごろに結成された。当時はまだニルヴァーナというバンド名ではなかったが、ニルヴァーナのベースを最後まで務めたクリス・ノオヴォゼリックはすでにメンバーとして活動していた。ニルヴァーナというバンド名になって本格的に活動を始めたのは1987年からである。このころのニルヴァーナの活動は、オリンピアの大学のカレッジラジオでライブをしたり、地元シアトルのライブハウスに出演したりとライブ活動を中心に行っていた。このころのライブ活動の目的はレコーディング費用を稼ぐためだったとカートが語っている。
 翌1988年、新ドラマーが加入したことをきっかけにデモ音源のレコーディングを行っている。このレコーディングではシアトルのスタジオで10曲録音している。そしてこの完成したデモ音源をカリフォルニアのSSTやシカゴのタッチ&ゴーなどの有力なインディーズレーベルに送った。しかし、これらのインディーズレーベルからの返事はまったくなかった。
 そのころシアトルではサブ・ポップというインディーズレーベルが設立していた。カートはサブ・ポップの存在を知らずデモ音源も送っていなかったが、どこからか音源を入手して聞いていたサブ・ポップの社長に気に入られ、そこから話しは進みニルヴァーナのインディーズデビューが決まる。しかし、契約は決まったもののリリースの時期ははっきりせず、そのことについてカートは何度も社長と連絡をとっていたが曖昧な返事ばかりで、しびれをきらし再度デモ音源を数々のインディーズレーベルに送っている。
そしてようやく1988年11月インディーズデビューシングル「ラブ・バズ/ビッグ・チーズ」をサブ・ポップからリリースする。わずか1000枚という限定生産ではあったがすぐに品切れとなり、コレクターズアイテムとなった(今では50ドル以上の値がついているらしい)。
 ここまでバンドの本格的始動から1年ちょっと、かなり早いデビューである。このころシアトルのインディーズシーンがイギリスで注目され始め、インディーズレーベルとバンドとの契約が盛んに行われていたということもあるが、それにしてもかなり早い。それに、契約が決まってからリリースまでの間のカートの状況を見ても、早くCDをリリースして世に出たいと考えていたようにみえる。このことから見る初期ニルヴァーナは、普通のバンドと同じように、早くCDを出して売りたいと考えていたのではないかと思われる。

 次にメジャーデビューまでをみていきたいと思う。
 デビューシングル発売後ニルヴァーナはすぐにアルバム製作の準備に入る。ニルヴァーナはすぐにレコーディングに入りたかったが、サブ・ポップはこのころ経営難でそれどころではなかった。しかし、彼らは自分たちでスタジオを予約し1988年12月にレコーディングを行った。製作費は漁業をしている友人に借金してなんとか完成させた。そして1989年6月アルバム「ブリーチ」をサブ・ポップからリリースする。
 「ブリーチ」はリリース直後インディーズシーンにもサブ・ポップにも大したインパクトは与えなかった。サブ・ポップは大して宣伝しないことが通例だったので「ブリーチ」に関しても同じだった、にも関わらず「ブリーチ」は売れ出し、売れ続けた。理由はリリース直後から行った全米ツアーの影響による口コミとカレッジラジオでニルヴァーナの曲が流されたことだった。「ブリーチ」のセールスが伸びるにつれてバンドの知名度も上がっていった。
 このころの彼らの言葉で「アンダーグラウンド・シーンは停滞し、メジャーレーベルの資本主義のブタどもの大同盟に接近しているとニルヴァーナは考える。が、ニルヴァーナは倫理的使命に燃えて、この癌のような悪に立ち向かうのか?とんでもない!俺たちも便乗してお偉方にへつらってやる。」とある、このころから明らかにメジャーを意識するようになっていたと考えられる。
 翌1990年のニルヴァーナはライブ活動を中心に活動している。5月から2回目の全米ツアーを行い、その途中ドラマーと些細なことでケンカになり、そのドラマーをクビにして、以降そのツアーのライブはキャンセルしている。その後しばらくはサポートメンバーでキャンセル分の振替ライブを行い、10月バンド仲間の紹介で新たにデイブ・グロールをドラマーに迎えた。そしてソニック・ユースの前座を務めたり、イギリスツアーを行ったりと精力的にライブ活動を続け、メジャーレーベルから声がかかるほどに有名になっていった。
 そして多くのメジャーレーベルからの誘いの中からゲフィンを選んだ。理由はソニック・ユースが在籍していて、ソニック・ユース初のメジャーアルバムを25万枚も売った実績があったからである。この当時「ソニック・ユースのように大成功したいんだ。」とベースのクリスは語っている。
 翌1991年4月ニルヴァーナは正式にゲフィンと契約をする。契約後すぐに、カートは喜びを父親に電話で報告している。
 そしてニルヴァーナはレコーディングを行うためにLAに行っている。レコーディング直前、彼らはスタジオに入り入念なリハーサルを行った。そしてレコーディングは若干の遅れはあったもののなんとか終了しミックスを残すのみとなった。ここでレコーディングされたのが後に大ヒットすることになったアルバム「ネヴァー・マインド」である。
 最初のミックスは音にパワーがなく、メンバーもレコード会社側も気に入らず、プロデューサーを代えてやり直された。この二回目のミックスでは音はマイルドになり、メンバーはあまり気に入らなかったが、レコード会社側がオーケーをだしアルバムは完成した。カートはこの音に関して後に「結果的に800万枚も売れて、今では好きなことができているから、それはそれで良かった」と語っている。
 1991年9月アルバム「ネヴァー・マインド」リリース、初回出荷数約5万枚、ビルボード・チャート初登場144位。その後MTVでPVが流されるようになり、翌1992年1月にはマイケル・ジャクソン蹴り落としビルボード・チャート1位を獲得し大ヒットすることになった。

 インディーズデビューからメジャーデビューまでの間約3年、アルバムはわずか1枚しかリリースしていない、そのアルバムのセールス状況の良さや、ライブでの評判の良さから考えると妥当なメジャーデビューまでの流れだと思うが、本題の商業主義的云々に関してだと、どう考えても一般的なメジャーデビューまでの流れに乗っている、ということはビジネス化した音楽業界を否定していることにはならないし、むしろうまく乗ったと考えることができる。ビジネス化した音楽を否定しているのならば、活動の拠点をメジャーに移す必要はなかったのではないかと思う。
 CDのリリース状況からみるニルヴァーナは、普通のバンドと同じように、インディーズでCDをある程度売って注目され、メジャーと契約するというサクセスストーリーを望んでいて、それをうまく実現させたバンドだと考えることができる。

2.ニルヴァーナのメディアへの露出

 次にニルヴァーナのメディアへの露出についてみていきたいと思う。
 活動初期からニルヴァーナはメディアへは登場している。初期は地元の大学のカレッジラジオでライブをしたりと、カレッジラジオに何度か登場している。インディーズデビュー後もカレッジには登場し続けている。この時代のアンダーグラウンドのシーンにとってカレッジラジオの影響力はかなり大きく、カート自身もカレッジラジオを通して地元の音楽シーンを知ったりしていた。
 インディーズデビューしアルバム「ブリーチ」のセールスが好調になると雑誌の取材の依頼もくるようになる。このころは特に毛嫌いするわけでもなく取材に応じ、時にはおかしなジョークを交えながらこなしている。
 状況が大きく変わるのはメジャーデビュー以降である。アルバム「ネヴァー・マインド」が発売されるとMTVでは彼らのPVを大量のオンエアーし、アルバムの売り上げを後押ししている。この状況をカートはオンエアーしすぎだと批判もしてはいるが、裏ではもっとオンエアーしろとマネージャーに言ったりもしている。
 このころは雑誌の取材もかなり多くなりインタビュー記事も多く掲載されるようになっている。ローリングストーン誌など有名ロック系雑誌はもちろん、日本の雑誌にも多く掲載された。日本で最初にカートのインタビューを掲載したのはメタル雑誌バーンで、「ネヴァー・マインド」発売直前に行っている。
 一日に大量の取材を受けることもあり始めのうちはなんなくこなしていたものの、後半は面倒くさくなって拒否したというエピソードも残っている。
 テレビへの出演もこのから始まっている。主にMTVのインタビュー番組、サタデーナイト・ライブなどに出演している。特にMTVでは様々なおもしろいエピソードを残している。
 メディアへの露出が少なくなってくるのは、カートがドラッグ中毒で更生施設に入るようになってからである。
 
 メディアへの露出に関してみると特別少なかったわけでもない。MTVでは積極的にPVを流すようにしていたし、インタビュー記事も多くありメディアを嫌うような傾向はあまりみられない。むしろ積極的とまでは言わないがメディアをしっかり利用し、プロモーションもしっかり行っていたようにみえる。ただそれはメジャーデビューからセカンドアルバムくらいまでの話しである。それ以降はカートのドラッグ中毒がひどくなりメディアへの露出は少なくなっている。

まとめ

 ここまでの様々ことから考えると、ニルヴァーナというバンドは商業主義的音楽を否定した音楽であるとは思えない。むしろ普通のバンドたちと同じようにある程度ビジネス化した音楽業界にしっかりはまっていたように思える。少なくともメジャーデビューアルバム「ネヴァー・マインド」まではある程度音楽をビジネスとして考え作品を作っていたのではないかと考えられる。
 よって、ニルヴァーナの音楽は商業主義的ではなかったとはいいきれないのである。


岩崎 由季

フィッシュマンズ

はじめに

 佐藤伸治には会えない今、皮肉にもフィッシュマンズの音楽を必要とする若者が増えているように思う。私もその一人である。
 それを知ってか、結果的に最後のフィッシュマンズとなってしまった茂木欣一が再び動き出した。98年に脱退したベースの柏原譲とエンジニアZAKも再び集結し、究極の2枚組ベスト盤「空中」と「宇宙」を制作。ディスク2には未発表曲や佐藤のデモなどのレアトラックスを収録し、ファンを大胆に喜ばせた。「今年はもっとおもしろいことをやろうと思ってますよ。今年はみんなの気持ちが揃ってきているしそういうときって動いた方がいいと思うんだよな。」と、この作品のインタビューで茂木が言ったとおり、夏にはライジング・サン・ロック・フェスティヴァルのメインステージにフィッシュマンズとして登場、そして11月には"THE LONG SEASON REVUE"と名付けた東名阪ツアーをやってみせた。
 昔は当日券で入れるようなバンドであったが、渋谷AXでの公演の日は段ボールに「チケット譲ってください」と書いたファンがたくさん集まっていた。このツアーはボブ・ディランが1975年に行ったツアー "ローリング・サンダー・レヴュー" からヒントを得て、昔から親交があったミュージシャンや新しく知り合ったミュージシャン達とともに回るというもので、参加アーティストはHONZI、ダーツ関口、木暮晋也、沖祐市、山崎まさよし、UA、ハナレグミ、原田郁子、蔡忠浩、ポコペン、キセル、POD、ASA-CHANG。3時間半に及ぶライブは普段は味わう事のない完全に特別な空間だった。このライブの模様を中心に編集した映画「THE LONG SEASON REVUE」がもうすぐ公開される。その他にもライブ音源シングル「いかれたBaby/感謝(驚)/Weather Report」、97年のライブDVD「若いながらも歴史あり」、98年のライブDVD「男達の別れ」をリリースするなど、驚くほど大きな動きをみせている。

 なぜ今フィッシュマンズが再び注目されているのだろうか。ここまでこのような現象が起こるバンドは日本では大変めずらしい。茂木のフィッシュマンズへの思いが強いだけではない。柏原はこう考える。
 「日本の若い人のことを考えると憂うべきことなのかもしれにないけど、やっぱりあんまり未来に希望とか持てない人が、残念ながら多いかなという気がする/退屈とかあんまりやることがないとか/フィッシュマンズはそれをリアルに表現してしまった/共感を呼んでいるのは、こういう時代のせいもあるのかなあ」(MUSIC MAGAZINE 2006.2)
 私は昔の若い人を知らないので時代の変化については何もとも言えないが、確かに今の若い人には夢を持たない人が多い気がする。自分の周りだけでも、夢を見つけて夢中になっている人間よりも、やりたい事がみつからない人間が圧倒的に多い。
 人が良い音楽と考えるのは「共感」できることが第一である。そのことから考えても柏原の下記の言葉も間違ってはいないだろう。フィッシュマンズは退屈を歌い、音にした。
 それは「かっこ悪い人はかっこ悪いことをやればいい/一番カッコイイのは“リアル”ってこと」(QUICK JAPAN vol.18)という佐藤の音楽の考え方から始まった。

 しかしそのサウンドを聴く側は決して退屈ではない。昼でも夜でも、部屋の中でも外でも、どんな状況で聴いても目の前にはその曲だけの景色が広がり、聴くたびに新たな発見がある。景色が見える音楽はたくさんあるが、フィッシュマンズほど想像を掻き立てられるバンドも無いだろう。
 佐藤伸治以下のように語っている。
 「音響派のミュージシャンが『音響が好きだから音響を出す』のに対し、自分たちは『こういう感情を表現したいからこういう音響を出す』」
 水のように形はなく、その時々の人間の心を鏡のように映し出す。心地よさの裏側にみえるのは自分との対峙だ。

 私とフィッシュマンズとの出会いは、あまりいいものではない。深夜、漫画喫茶でテレビをつけヘッドフォンをして寝ていたところ、フィッシュマンズ特集が始まり、かなり長い時間うなされた。「何なんだこの声は!」と思い、その時は二度と聴くことはないだろうと思った覚えがある。しかし何とも気になる音だった。
 その後しばらく気になってはいたが、忘れかけた頃に、友人の「フィッシュマンズのヴォーカルってかなり若くて死んじゃったらしいよ。」という一言で聴いてみようと思った。
 私は死ぬのがものすごく怖い。自分がいなくなることの恐怖について考え出すと、紛らわすものは何もなく、とにかく一人ではいられなくなる。「死」という言葉に敏感である。若くして亡くなったフィッシュマンズのヴォーカルはどんな人だったんだろう、と聴き始めたのが私とフィッシュマンズとの出会いであり、歌詞に共感したでもなく、音に感動したわけでもない。

 佐藤伸治の「死」がきっかけで聴き始めたフィッシュマンズは、あまりにも唯一無二で、私はみるみる惹きこまれていった。その魅力を人に伝えようとしてもなかなかいい言葉がみつからない。そこで私はZAKのインタヴューでフィッシュマンズを表現するのにうってつけな言葉を見つけた。
 「(フィッシュマンズは)針の穴から宇宙を見せる感じ」
 この言葉はリスナーに自分たちの音で圧倒するのではなく、彼らの「音」を覗き込みたくなるようなリスナーの気持ちを上手く表している。


 そもそも音楽は何を求めているのだろうか。
 何千年も人間は音楽というものに触れてきているのにも関わらずその答えはまだ出ていない。しかし音楽を聴き続け、よりよい音楽を求め、誰とも似通っていない音楽を求めるのはなぜだろう。そんなことを考え始めたのもフィッシュマンズと触れてからというものだ。音楽に対する起源、進化、未来。そういったひとつのベクトルがこのバンドでは感じられる。

 フィッシュマンズを語る上でまとめておきたいのは、やはり「今もなお何故支持されるのか?」ということだろう。今支持されている反面当時の音楽ファンたちは戸惑ったに違いない。
 それほど彼らの音楽はムーブメントから反れていた。それでは「当時の音楽シーン」はどうだっただろう。
 当時フィッシュンズがデビューした1991年という時代。まさにバンドブームの到来とともにフィッシュマンズは現れ、リスナーにショックを与えた。当時のバンドブームといえばコンセプトのはっきりしているものが多かったように思えるし、ロック、パンクロックの流れもあり、リスナーもそれを求めていたからだ。
 その流れをみぞおちを殴るがごとく「ゆるく」ショックを与えた。リスナーは戸惑ったに違いない。こんなにも「ゆるく」モラトリアム的な学生気分をいっぱいに掲げたバンド、コンセプトも見えない。リスナーが戸惑ったのは、それでも「良い音楽」と脳が自然に反応したからだ。今までの鬱屈した音楽シーンとまったく異なる音楽。されど同じ音楽。
 リスナーは本能を抱えたままフィッシュマンズに走った。その頃はレゲエ、ダブ、といったジャンルは存在はしたが、一部の音楽ファンだけで、もっとも多くの人々に聴かれる舞台には上がっていなかった。今だからR&B、ソウル、jazz・・・さまざまな黒人音楽メジャーな音楽シーンでも頻繁に見かけるが、当時は白人の音楽がルーツになっているものがほとんど。

 「裏ノリ」なんてものは日本人には受け入れられなかった。しかしこのムーブメントはフィッシュマンズだけにあらず、スチャダラパー、大沢伸一・・・そのような黒人音楽のテイストを含んだ音楽がフィッシュマンズとともにバンドブームに乗ってきたのだ。リスナーはこれを当時どう受け取ったのかは知る由もないが相当な衝撃だったに違いない。

 もともと日本人は稲作生活。「タン・ウン・タン・ウン」という生活から慣れ親しんだリズムが体にしみこんでいる。方やアフリカから移動してきたと言われる黒人は狩猟生活。通称裏ノリといわれる「ウン・タン・ウン・タン」というリズムは日本人からしてみれば全くもって逆のことであるから、この衝撃は想像の仕様がない。
 フィッシュマンズの音楽は当時の音楽シーンに新たなエレメントを注入したといっても粗方間違いでないだろう。
 前文でのことをまとめると先を行っていたフィッシュマンズの音楽が今ようやく追いついた、と簡単に言ってしまえばこういうことだろう。「それでも地球は回っている」と言い残して死んでいったガリレオガリレイのように彼らは当時、歯がゆかった面があったに違いないと私は思うのだ。

 しかし一つの疑問がわいてくる。
 今現在フィッシュマンズはさまざまなメディアで注目されているが、その半分はロック雑誌から取り上げられることが多い。ジャンルで言えばロックとは言えないフィッシュマンズ。何故ロックなのか。ここで私は一つの仮説を立ててみた。ロックというのは音楽のジャンルだけではなく、精神面でも多く取り上げられることが多い。芸術、映画、写真。すべての表現する場の中で「ロック」という言葉が多く用いられる。奈良美智、hiromix、ジャンリュックゴダール、・・・さまざまな表現する場で彼らは何かに腹を立て、その矛先として作品に身を投じている。
 しかしここでもう一つの疑問が出てきた。どこに「ゆるく」が強調されていたフィッシュマンズが「ロック」であり、「反逆」というインスピレーションを作品にしたのだろうか。

 2006年現在。何不自由ないこのご時世に生まれた子供たちは膨張した文明の上で何を目的として生きればいいのだろう。好きなものも手を伸ばせば届く位置に存在し、音楽といえば粗方手がつけられたもの。今フィッシュマンズが居てくれたら。。。そんなことを思ってしまうのは私だけではないだろう。
 しかしフィッシュマンズがいたのなら粗方手をつけたと思われていた今の音楽に、さらに新しい音楽、すばらしい世界を私たちに見せてくれるだろう。
 そこで私は思うのである。フィッシュマンズがロックであるとするならばそれは「自由」に対する真っ直ぐなスタンスだろう。自由に見えていたものは実は誰かに作られたもので、きっと皆同じ方向に向かっていっているのである。そこでフィッシュマンズは音楽という媒体を利用し、皆に問いかけているのだ。自由というものは水のように形のないもので宇宙のように限界のないもの。その水の中で泳ぐように彼らは歌っていた。
 もし私がとてつもない逆境にあっても、同じ方向ばかり見つめないようにフィッシュマンズを聴こうと思う。自由という意味を本当の意味で見れる力をくれる。物事を大きく見る目をくれる。
 それが私にとっての、みんなにとってのフィッシュマンズだと思うからである。



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