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書評:小川博司『メディア時代の音楽と社会』

大西貢司
NEWSLETTER 20(1994.04.15.)




 本書は、同氏の『音楽する社会』(1988)以後に書かれた、ポピュラー音楽に関するエッセイ集である。『教育音楽 中学・高校版』連載記事に加筆した18のエッセイが収められ、巻末には『聴衆の誕生』の渡辺裕氏との対談も収録されている。

1.「ききて」の体験を記述する
 言及されたトピックはまさにバラエティ・ショウ。『紅白歌合戦』(「国民的行事」から啓蒙番組へ)/女声デュオの変遷(ザ・ピーナッツ〜ピンクレディー〜Wink)/カラオケ(昭和一桁世代〜現代の学生)/バンド(GS〜『ベストテン』時代のバンド〜『イカ天』バンド)/メッセージソングの変遷(演歌〜艶歌〜反戦ソング〜四畳半フォーク〜ニューミュージック〜尾崎豊)/ワールド・ミュージック(宝塚歌劇〜シャンソン〜フランス映画〜『ベルサイユのばら』〜パリ発ワールド・ミュージック)/沖縄の「ワールド」性(仲曽根美樹〜田端義男〜南沙織〜フィンガー5〜チャンプルーズ〜りんけんバンド)/音楽放送の変遷(FM東京〜J-WAVE、FM802〜セント・ギガ)/クラシック音楽の受容(『題名のない音楽会』『オーケストラがやってきた』〜カラヤン来日〜ホール戦争〜TVのパロディCM「チーチーンブイブイ」)/広告音楽の歴史(CMソング〜イメージ・ソング〜クラシック音楽・民族音楽・現代音楽の進出〜リゲイン)等々。どのテーマも、歴史的深みをもって描かれている点に注目したい。これぞPM昭和史の「耳の証人」の記録だ。著者の生活史の中に立ち現われた音楽とその環境、そしてその変化を「民族音楽学者」が「参与観察」をするような視点から論じてある。一個人の特殊な音楽体験の記述でもあるが、それは著者と時代を共有し、音楽を見て、聞いて、歌って、プレイし、魅了され、追いかけた、私たちの姿でもある。

2. メディアがもたらしたもの
 この本のタイトル『メディア時代の音楽と社会』は、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』と、小川氏のデビュー作『消費社会の広告と音楽』をミックスしたような語感がある。後者の背後にボードリヤールの『消費社会の構造と神話』が控えているのは、いうまでもない。じっさい、ベンヤミン=ボードリヤールのコンテクストで小川氏を読み解くことができるだろう。ところが、ベンヤミンとボードリヤールを足したらシェイファーがでてきた、というのが本書のストーリーなのである。
 電気による音の複製装置が出現したのは1920年代のことである。電気吹き込みのレコードは、パッケージ化された音楽を大量生産・販売することを可能にした。そしてラジオがレコードの販売促進に貢献し、ここに音楽産業が本格的に成立した。さらに80年代から90年代にかけては音の複製技術の革新が相次ぎ(ウォークマン、DAT、DCC、CD、MD、AV機器など)、人々の音楽生活も変わっていった(ホームテーピング、カーオーディオ生活、AVライフ、カラオケなど)。音楽の複製メディアは演奏の一回性を喪失させ、いつでもどこでも音楽を聞くことを可能にした。音楽はもはやコンサートホールの閉じた空間ではなく、日常生活の開かれた空間で気軽に、なにかをしながら「散漫に」聞かれるようになった。(サウンドスケープとしてのポピュラー音楽)。
 複製メディアは音楽の「送り手」と「受け手」を切り離した。それは音楽コミュニケーションの革新でもあった。音楽産業は「送り手」と「受け手」を自由に媒介し、企業は広告に音楽を利用し、聴衆は好きなときに好きな音楽を聞く。街頭やテレビには音楽があふれていて、聞きたいという意志と無関係に「受け手」はメッセージを受け取ってしまう。「送り手」はもはや「受け手」の顔を見ることはない。
 こうした変化は聴衆が持つ<音楽>のイメージそのものまで変えてしまったのではないだろうか?著者には、音楽の感覚が変わっているという明確な認識が、ある。未来派、サティ、ケージ、シェイファーなどいわゆる「前衛」音楽家がすでに告知した状況(楽音の拡張、環境の音楽)が今世紀を通じてようやく大衆化したのではないか、とも著者は指摘する。
 音楽のノンジャンル化、カタログ化、横並び現象も、重要な変化といえよう。現代の聴衆はメディアを通して毎日、大量の音楽にさらされている。テレビCMにはイメージソングだけでなくクラシック、民族音楽などあらゆる種類の音楽が使用され、リビングルームに流れる。ラジオは新旧取り混ぜて多様な音楽を流す。聴衆をとりまく音楽環境は従来の音楽のジャンル分けを無意味なものにしつつあるのではないか。クラシック音楽の権威も解体し、いまやあらゆる音楽は「横一線」に並んでカタログ化しているのではないか。好きなものを好きなように取り出してくる感覚のポストモダン!だが著者の目にはこうした現代の聴衆は「軽い」ものに映る。「彼らは本当に音楽が好きなのだろうか」、と。軽やかな聴衆はどこへ行くのだろうか?

3. サウンドスケープ論のイデオロギー
 80年代から90年代にかけて、急速なメディア化によってポピュラー音楽はサウンドスケープになった、という小川氏のテーゼは興味深い。だが同時に、シェイファーをこんなふうに使っていいのか、という疑問も残る。たとえば「ローファイなサウンドスケープ」という概念。シェイファーは田舎のサウンドスケープはハイファイだが都市のサウンドスケープはローファイだといった。彼によると「ハイファイ」とはS/N比が高いこと、「ローファイ」はその逆である。小川氏は「ポピュラー音楽は、都市のローファイなサウンドスケープを地として、図として立ち上がってくるのである。」という。ポピュラー音楽は生活音のなかで自らを際立たせるために大音量を手に入れた。しかしこの方向でのハイファイ化が、かえってサウンドスケープ全体のローファイ化を招いた。それに負けじとさらに大音量化…そしてついに拡声器の音量は人間の可聴音圧レベルを越えてしまった。(日本では「ディスコ難聴」、「ウォークマン難聴」という言葉も生まれた。)これは由々しき事態である、というニュアンスが、シェイファーの「ローファイなサウンドスケープ」という言葉にはこめられている。サウンドスケープ論には音響生態学の視点がある。サウンドスケープ論は音のエコロジーなのだ。こうした立場は、ポピュラー音楽のありかたにも反省を促すのではないだろうか? 不愉快な音、無駄な音、使い捨てにされる音。シェイファーは、ミューザック(BGM)を「音のたれ流し」として批判している。少なくとも「ローファイ」は積極的な意味合いの言葉ではない。小川氏の記述はシェイファーの使えるところだけ使うというふうに感じられるが、私には、ポピュラー音楽とサウンドスケープ論との間には深いイデオロギー的対立があるように思われる。

4. 「近代」へのアンビバレントな態度
 ポストケージ時代の音楽研究家として、小川氏は「西洋近代音楽」を徹底的に相対化する。「作品」概念の崩壊、コンサートホールからの音楽の解放、楽音からサウンドスケープへ、など。ところが、そうしたポストモダンの位置づけにあるポピュラー音楽を分析するとき、理論的枠組はどういうわけか「近代的」なものとなる。「モダニズム」の時期の宝塚が憧れたパリの自由とロマンティック・ラブの観念、カラオケによる自己表現と自己陶酔、ライブコンサート聴衆の自己表現と自己確認、P.バーガーによる近代人のアイデンティティの特徴、青年のアイデンティティ、個性など(「自己」ほど近代的な観念は少ないだろう)。ポストモダンの<対象>をモダンの<方法>で語ることの奇妙。実は、著者自ら対談のなかで述べているように、これは自覚的スタイルらしい。「音楽のポストモダン的状況を語るのに、古い枠組による構成感に支えられた批評スタイルをとる、なんてね。(笑)」
 唯一、近代を突き抜けているのはボードリヤールの記号消費論だろう。消費社会ではモノが記号化され、記号が消費される。そして、個人は記号化されたものを消費することにより、「個性」を表現する。音楽もまた、「個性」の差異を表示する記号として作用する(「ヘビメタ好きの俺」)。だが著者は他者との差異のみによって示される「個性」に批判的だ。それは神話にすぎない、と。そして著者の心は近代社会的「個性」(≒「近代的自我」)へと戻って行くのである。近代的枠組に囚われるのは「近代市民社会の学」としての社会学の宿命なのか。

5. イージーシンキング、イージーリーディング!
 この本を読むには、目次を開いて面白そうな所から読むといい。どのエッセイも幅広い読者のために平易に書かれている。専門的議論は最小限にとどめられ、その語り口は軽やかだ。タイム誌のコラムニストによると、“ポップ”は “イージーリスニング、イージーウォッチング、イージーシンキング”なのだそうだが、本書の場合、“イージーリーディング”も付け加えなければならないだろう。音楽之友社らしいインディゴブルーのニートな装丁、脚注の参考文献・ジャケット写真も魅力的だ。


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